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新垣宗吉は故郷沖縄の島を前にして涙を流していた。揚陸艦の船窓から見える故郷の海は白い波頭が黒緑色の海の上で踊っていた。その白い波頭の向こうに黒く浮かんで見えているのが沖縄本島である。時間は一九四五年(昭和二〇年)四月一日、午前四時を少し回っていた。上陸援護のための砲撃はまだ開始されていなかった。

沖縄本島を含む南西諸島への米軍による本格的な上陸支援の空爆と、沖縄本島を取り囲んだ1300隻以上の艦船からの砲撃が三月二十三日から始まっていた。そして沖縄本島からわずか四〇キロほど西の海上に浮かぶ、慶良間(ケラマ)群島への上陸が三月二十六日に開始された。その戦闘状況が沖縄本島上陸部隊に刻々と伝わって来るにつけ、宗吉は体を震わせた。慶良間島、座間味島(ザマミジマ)、阿嘉島(アガジマ)、渡嘉敷島(トカシキジマ)聞いた事のある島々の名前ではあるがどのような島かは知らない。しかしそこには故郷比謝村の人々と同じ沖縄人(ウチナーンチュ)が住んでいる。島での戦闘の状況は、上陸した部隊とのやり取りをしている通信兵が話すのを耳にした。サイパン島のような激しい戦いではないらしい。

この日一九四五年(昭和二十年)四月一日未明、沖縄本島中西部の読谷村の海岸の空は青く晴れ渡り白い雲が流れていた。その海岸の沖合に戦艦10隻・巡洋艦9隻・駆逐艦23隻・砲艇177隻の米軍の艦船が上陸へ向けての援護砲撃の為に集結した。

沖縄本島を始め琉球諸島攻略の為に創設された米国第十軍の上陸部隊の主力は、太平洋の島々、レイテ島、サイパン島、グアム島などで日本兵と戦ってきた歴戦の第七、第二十九歩兵師団と海兵隊古参の強者が集まる第一、第六海兵師団の総勢八万五千名を超える兵士達である。兵士たちは輸送途上の船内で、すでに沖縄県の航空写真や地図、そして模型で本島の地形についてあらかじめ説明を受け、さらには風俗、文化、習慣なども用意されたパンフレットで知識を得ていた。沖縄本島を目の前にした上陸部隊の兵士たちのある者は本島への上陸はこれまで経験してきたサイパン島やグアム島、伝え聞く硫黄島の戦いのように日本軍の激しい抵抗にあうであろうと覚悟を決めていた。また初めて先頭に参加する新兵の中には体の震えを止めることができない者もいた。いづれの兵士たちも皆押し黙ったままであった。

まもなく上陸に先立って用意されている従軍牧師による祈りの儀式が始まる。その後に水平線の向こうに見える故郷、読谷村の海岸へ向けて再び砲弾がうちこまれる。その海岸に宗吉は軍服を着て上陸するのだ。上陸地点が幼い頃に泳いだ読谷村の海岸と聞いて、宗吉は胸がかきむしられる思いであった。しかも戦闘部隊の兵士ではない彼の上陸は、味方の兵士たちが制圧した後の激しい砲弾にさらされて破壊された村である。

すっかりと夜が明け、船窓の向こうに青い空とキラキラと陽の光に輝く波間に、黒っぽいサンゴ礁の岩肌と茶色の海岸が見えてきた。その海岸を幼い頃の記憶を確かめるように見つめながら、「お父さん、お母さん、お姉さん、おじさん、おばさん、親戚の人たち、村の人々、村の仲間たち、みんな、みんな、どうか無事に逃げていてくれ、頼む、頼む、頼みます」と声を押し殺して宗吉は何かに祈っていた。周りの米兵たちには「頼む、頼む、頼みます」と繰り返す声がわずかに耳に入ったようであった。

アメリカ軍が沖縄本島へ上陸をするのはこの時が初めてではない。一八五三年五月二六日にマシュー・ガルブレイス・ペリーが、沖縄本島へ約400人の海兵隊とともに上陸したのが初めてである。江戸幕府を震撼させることになった浦賀へ姿を見せる七月八日以前のことである。宗吉が米軍人として上陸をすることになるこの日、沖縄本島には陸海約11万人の沖縄守備部隊32軍が、沖縄県民約四十万人とともに待ち構えていた。攻撃する側の米軍の総兵力は約55万人である。サンゴ礁の隆起によりできている沖縄本島中部から南部にかけては鍾乳洞でできた洞窟が多数あり、上陸地点である読谷村の海岸から少し陸地に入った畑や、岡の中には無数の自然にできた洞窟があった。本島北部へ疎開できずに中部から南部に住んでいた人々はそれぞれにその洞窟の中へと静かに身を隠していた。

宮城真栄は誰かの呼ぶ声を聞いた。穴の外は昨夜から雨である。雨はまだ降り続いていた。米軍が上陸してから孫の加那と洞窟の中に隠れていた宮城真栄は、穴の外から聞こえてくる鈍い雨音に混ざって、鋭く叫ぶ人の声を聞いたような気がして目が覚めた。真栄とその孫加那が隠れている洞窟は奥が深く、岩の割れ目を利用した入口は草に覆われ人目には付きにくい。去年の10月の空襲以来、ここが戦場になることを予想した宮城家の人々は、事あるごとに食べ物、芋、塩、砂糖、米、そしてアンダンスー(豚味噌)をその穴の中へ蓄えてきた。戦が激しくなったら先祖代代伝わる畠の中の、自然にできた洞窟に隠れる事に決めていた。少しずつ食料もその穴の中に貯めてきた。穴の中に隠れてもう何日にもなる。確か三月の二十六日の激しい空襲の後だから既に一カ月は経っているはずだ。そして食糧は乏しくなってきていた。真栄は穴の入口近辺をうろうろするだけで、孫の加那一人を置いて遠くまで食糧を求める事はできなかった。穴に隠れてから一週間ほどは爆撃や砲弾の爆発する音が近くに聞こえてはいたが、今は遠くに聞こえるだけで、穴の近くではあわただしく離着陸を繰り返す飛行機の音がうるさく聞こえるだけであった。米軍は上陸のその日に読谷村にあった日本軍の北飛行場と嘉手納にあった中飛行場を占領し、自軍の砲撃や爆撃により穴のあいた滑走路をたちまちのうちに補修し、四月の六日には自軍の飛行場として使用していた。これが現在まで続いている米軍の嘉手納空軍基地である。米軍を恐れた二人は明るいうちは壕の中に静かに隠れ、夜になり静かな時を見計らっては乏しい食糧を求めて、ときおり外へ出る事を繰り返していた。砲撃や爆撃で荒れた周辺の土地には、わずかばかりのサトウキビ畑や芋畑が残っていたが、同じく壕に隠れている避難民に掘り返されていて、やせ細った芋が時折見つかるだけであった。しかし真栄は孫と共に生き残って見せるという自信があった。

再び声が聞こえてきた。暗い洞窟の中では朝の淡い陽の光は奥まで届かず、目が覚めたのかまだ夢の中なのか定かではない。宮城真栄はその胸に抱かれながら眠っている孫の加那を確かめるように強く抱きしめた。すると真栄の腕の中で加那がもがいた。「大丈夫だ、二人とも無事だ、まだ生きている」真栄は再び目をつむり孫のぬくもりを感じながら眠りに落ちた。落ちながら真栄はわずか三カ月ほど前の記憶の中にいた。

「無理してもお父さんとこの子は疎開させた方がよかったんでしょうかね」食卓に並べられたサツマイモの味噌汁と魚をつつく真栄と真一に向って、真一の妻佳子がため息交じりに漏らした。

真栄は夢の中で佳子の言葉を繰り返しながら、その年、昭和20年の旧暦の正月、現在の暦では二月一九日、宮城家での夕餉の会話を思い出していた。加那の父親、真栄の息子である宮城真一は沖縄県立第一高等女学校の教師で。真一の嫁、加那の母親佳子は壺屋国民小学校の国語の教師である。

「お父さん、今日は銃の撃ち方、機関銃の撃ち方まで訓練させられましたよ、女子生徒にまで軍事教練ですから、今年になってますます激しくなってきました。毎日、毎日、食糧増産で畑を耕したり、バケツの防火訓練から、竹やりの訓練、役に立たないとは思いますが、これも戦意高揚のためですからね」

「そうなんですよ、私たちの小学校でも男の子は竹やりの訓練をさせられましたよ。ほんとに戦意高揚といっても、小学生に何ができるんでしょう」 ささやかな夕餉の始まりとともに、その日一日の出来事を真一と佳子が語りだした。

前年の昭和十九年七月九日にサイパン島が米軍の手に落ちた。六万六千人を超える米軍が六月十九日に三万一千人の日本軍が守るサイパン島へ上陸をし、七月七日の万歳攻撃により日本軍は玉砕した。日本軍の死傷者は戦死二万五千人、自決五千人、捕虜九百名に上り、戦闘開始時のサイパン島への一般人入植者二万人のうち、約一万人が犠牲になった。大本営は「おおむねほとんどの民間人は軍と運命をともにした」と発表し、当時の各新聞報道でも民間人の壮絶な最期を報じた。戦闘部隊の玉砕とともにサイパン島へ移住をしていた約半数の一万人に上る民間人の犠牲も勇ましく伝えられていた。太平洋の島々の戦いで民間人が大量に犠牲になった初めての戦いであった。その責任を取った形で、十日後の七月十八日には東条英機内閣が総辞職し小磯国昭内閣が誕生するが、あくまでも戦争遂行を閣議決定した日本国政府はサイパンでの尊い犠牲を「最後まで軍と一緒に戦った勇敢なる帝国臣民」と位置づけ、婦女子を含む国民の戦意高揚をあおっていた。そのサイパンで軍とともに闘ったり、自決した島民の多くは沖縄県出身の人々であった。真一や佳子が教える生徒の家族や親せきも数多くいた。

サイパン島が米軍の手に落ちる直後の六月三十日に、東條内閣は『学童疎開促進要綱』を閣議決定し全国へ通達を出した。沖縄県にもその通達は直ちにおこなわれた。その通達文書の「疎開の対象」には次のように書かれている。「国民学校初等科第三学年ヨリ第六学年マデノ男児希望者ヲ原則トシ初等科第一、二学年ノ者トイエドモ身心ノ発育充分ニシテ付添ヲ要セズト認メタル者ハ之ヲ許可ス」と。十五歳以下の男子生徒と60歳以上の老人たちが対象であった。その通達に即して沖縄県は十万人の疎開計画を立て、住民に疎開に応じるよう勧めた。それにともない真一たち教師は各家庭の親たちになるべく早く疎開をするよう勧めて回っていた。しかしすでに日本軍は南西諸島における制海権も制空権も失っており、本土への疎開は敵に狙われるという危険なものにならざるを得ず、それを嫌がった多くの住民は戦況が日々悪化しているのにもかかわらず、なかなか疎開へ応じようとはしなかった。それが十月十日に沖縄本島を含め南西諸島全域に初めての空襲があると、壊滅した那覇の人々は次々と本島の北部へと疎開を始め、そして本土への疎開の機運もにわかに高まりだしたのである。そんな中、年齢をごまかして疎開船へ乗船しようとする者もでてきた。この年の三月

に6歳になり、国民小学校の一年生に通うことになった加那は女子である、また、父、真栄もまだ60歳手前で強制的な疎開の対象者からは外れていた。正月の三日前の二月十六日、すでに硫黄島では米軍の激しい砲撃が始まっていた。

「硫黄島に米軍が上陸をし、それを迎え撃つ皇軍は激しい戦闘のすえ、敵の大部隊を殲滅したという噂が流れてきましたが、硫黄島を攻略できずにあきらめた米軍が次に攻めてくるのはこの沖縄なんですかね」佳子は不安そうに夫の真一に尋ねた。硫黄島の戦いはこの時始まったばかりであった。

「備えは万全だ。沖縄には我が皇軍の10万の兵士が守っているんだ。それに郷土防衛隊のわれわれ沖縄の壮丁たちがいるんだ。噂だが、参謀本部の見通しでは、三か月もこの沖縄で米軍を釘づけにすれば、長旅の敵は消耗し、それに加え本土と台湾からの応援部隊がやってきて米軍を挟み打ちにして撃退するということらしい。来るならこいだ」

「でも、地上戦が始まるのは嫌ですね。あちこちの島での婦女子への米軍の仕打ちはひどいものらしいですから。つかまったりしたらどうしましょう」

「生きて虜囚の辱めを受けずと戦陣訓にもあるではないか」

「そうはいっても、それは兵隊さん達だけの教えではないんですか」

「日本臣民すべての精神だ」

「ええ、ええ、そうですとも、でも、この子とお父さんはやっぱり疎開させたほうがよかったような気がするんですがね」サイパン島での玉砕の事は既に知っていた。

「いまさらもう言うな。身寄りのない内地にお父さんと加那をやるわけにはいかんだろう。加那を一人でやるわけにもいかんし」そっけなく真一はかわした。その話題には触れたくないのである。

「でも、あの時無理にお父さんと加那を疎開船に乗せる事も出来たんですよ。それをあなたが国民の模範となるべき教師がそんなことできるかと一蹴したものだから」それを言われると真一も勇み足であったかと悔やむが、いや、あの時、親父は賛成しなかったし、教師としては正しい選択だったと自身に言い聞かせるのであった。

あの時とは、これで最後の疎開船になるかもしれないというつい三日前の事である。村の役人と村の防衛隊に配属になった軍の将校から「宮城さん、あなたのとこのお父さんと娘さん、強制疎開の対象にはなっていませんが、今年最後の疎開船に乗れるように手配してあげますが、どういたしますか」という誘いが妻の佳子にあったのである。疎開の誘いは無論のことありがたかったが、父親の真栄にその話をすると「そんなことはできない」と一蹴された。それどころか、教師として疎開すべき人々全員がまず疎開した後に、最後に疎開をすべきであろうと諭されたのである。「これまで、数多くの若者を戦地に送り出してきたこのわしが、逃げるわけにはいかん」との思いも真栄にはあったようである。

父、真栄は1904年の日露戦争の開戦時、18歳の時に自ら志願し兵役に服し、1916年30歳で退役後に、故郷沖縄読谷村の隣村比謝村に帰った。その年に真一の母となるマツと結婚、翌年に真一を授かったが、産後の肥立ちが悪かったのか、妻のマツは真一を産み落とすとあっけなくこの世を去ってしまった。比謝村は読谷村を流れる比謝川の上流にあり、わずか25軒ほどの集落である。村は貧しく隣の読谷村でほとんどの村人が小作農として働いていた。真栄はその村で初めて志願兵として日露戦争へ参加をした。帰郷後、在郷軍人として比謝村の防衛隊の創設に携わり、率先して村人の戦意高揚に努めてきたのである。これまでの真栄の村への貢献と幼い加那を危惧しての、さきの村役人の誘いであった。しかも、その誘いのあった二月一六日には硫黄島に米軍が攻撃を開始したことが伝わっていた。いよいよ沖縄である。米軍はそこまで迫っていた。

そんな不安な中の正月の食卓である。父の真栄は聞こえなかったように、孫の加那の相手をしている。真栄のつま弾く三味線にあわせて真一が歌いだした。まだ肌寒い夜空には上弦の月が、薄く流れる雲の向こうで鈍い光を落していた。

「Hi, Shorty, just came back from harbor?」(やあ、ショーティー、港から帰ったとこかい)

青い海と白い波がざわめき始め出した夕暮れ時、オレンジ色の水平線の上に満月が金色に輝きだした、七月初旬のハワイの海は故郷沖縄読谷村の海を思い出させる。ハワイからの最後の横浜行き定期船に友人を見送って帰って来た新垣宗吉に、イタリアからハワイに移民をしてきたピートが声をかけた。

「Yes, Pete, He left」(ああ、ピート、行っちゃったよ)

ピートは背の低い新垣宗吉の事をショーティー(背が低い人)と呼ぶ。その彼は彼の遠い親せきに当たるミスター・ビアネロが経営する同じパイナップル畑で働く仲間で、イタリア、シシリー島の生まれである彼は監督官で沖縄から移民してきた宗吉は作業員である。お互いの島の気候やそこに住む人々の話をするうちに、イタリア本島の繁栄を受けず貧しいシシリー島の魚村、アウグスタ村にアンフソ家の三男として生まれ、親戚のミスター・ビアネロを頼りに新天地ハワイに渡って来たピートと、沖縄読谷村比謝村の貧しい農村の長男として、同じ村の先輩を頼りにハワイへ渡って来た宗吉が互いに惹かれるようになったのは自然の成り行きなのだろう。

宗吉は同じ村からハワイへ移民をしてきた友人の比嘉盛徳を見送りに行った帰りであった。港からの帰り道、宗吉はその二か月前の五月、盛徳と話をした事を思いかえしていた。

「日本はこのまま突っ走って行くのは間違いだと思う」と宗吉が言うと、「内地ではわれわれみたいな食えない農民がたくさんいるんだ。満州国へ移民をしてそこの広い土地を農地として開拓し、同胞中国の人々と仲良くやって行くことが非難されるなんて、それこそ欧米列国の帝国主義の傲慢さではないか」と盛徳が言った。そしてついには、もし日本とアメリカが戦うことになったらどうするかと議論をしたのである。ハワイと日本を結ぶ定期船が中断されるという噂に、日本と米国の逼迫した緊張感が彼らをいっそう苛立たせたからである。

比謝村の第三次ハワイ移民団のまとめ役として、宗吉と一緒にハワイへ来て三年になる盛徳は、ポルトガル人の経営するサトウキビ畑で働いていた。比謝村では村長の三男として育ち、村の青年団を何かにつけてまとめてきた彼は8名の比謝村の若者を引き連れてやって来たのである。だが、彼のマスター・エストラーダは高慢であった。同じく移民してきた中国人を含め、アジア人には何かにつけて辛く当っていたからである。盛徳の補佐役として村の青年団をまとめてきた幼馴染の宗吉に、盛徳はエストラーダの振る舞いに対してよく不満を漏らしていた。そんな彼は最後の定期船を逃したらもう日本へ帰れないと焦っていたのである。

「日本へ帰って俺は満州へ行く。満州で開拓団の一員として誰にも指図を受けずにやり直す。どうも、あのエストラーダの蔑んだ態度には我慢がならん」

「満州へ行くというが、吐く息も凍るという寒い満州で、われわれ沖縄人はやっていけないだろう。それに今、日本へ帰ったら招集されてしまうよ。そんなことになったら大変だ。ハワイにいて、辛くても戦争に行かなくて済むだけましというものだろう」なんとか引き留めようとする宗吉に、「兵役にとられたらそのときはそのときだ。お国の為に尽くすだけだろう」

成徳はそう応えた。

「尽くすといっても戦争だろう。殺し合いだよ、それに・・・」

「それに」

「万一だよ。戦うことになったら・・・」

「なに、日本とアメリカが戦うなんて、そんなことはないさ。満州国の成立は認めないだの、鉄道の施設件はロシアが優先だの。そんなのみんな政治的な駆け引きだろう、どこかで折り合いをつけるさ。それになんといっても中国人が歓迎しているのだから」

「そうだといいが、兵隊はおれは嫌だな」

「俺だって嫌さ、まあ、これほど物が豊富なアメリカとだよ、まさか、今まで仲良くやって来たんだし」

盛徳はハワイへ来て以来、豊かな暮らしぶりを見せる白人の姿にあこがれていた。遠く寒い満州で豊かな生活を築き、日本や中国の現地の貧しい農民たちを雇い入れて、マスターと呼ばれる自分の姿を重ね、「俺が自分自身の農地をもったら、雇用人には良くしてやる。みんな平等に扱ってやる」と夢を見ていた。

「盛徳、もう一度聞くが兵隊にとられたら、その覚悟はあるのか」宗吉が質問してきた。

「なんだそれは、どういう意味だよ。ちゃんと出征して戦うさ。どんな敵にだって負けやしないさ。お前だってそうだろう。ハワイに暮らしてはいても、日本国民という事は変わらないんだから」

「そうかな、でも、俺は悩むなあ」

「ん、宗吉、それはちょっと。お前日本人だろう。何を悩むんだよ」

「盛徳、お前だってそうだろう。忘れはしないだろう、ヤマトが俺たちウチナ―になにをしたか、どれだけ、俺たちが蔑まれてきたか。それが嫌で移民してきたんだろう。そうではないのか」

「それもあるさ、でも、やはり、日本国民だって。白人たちのわれわれアジア人に対する態度を見てたら、やはり、俺は日本人だと心の底から思えるんだ」

「そりゃ、俺だって同じだよ、でもな、ここだったら、故郷の方言を使ったって誰にも文句を言われないんだよ。故郷、沖縄ではウチナ―ンチュがウチナーグチ(沖縄方言)、話せないんだよ。そんなヤマト(日本)に忠誠を尽くせるのか」

「宗吉、俺もそう思うよ。でも、日本人だろう。日本の国の為に尽くすのが当り前だろう」

「国といったって、その国が何をしてくれたんだ。万一だよ、日本とアメリカが戦ったら、どうすればいいんだよ」

「まさかアメリカの兵隊になるなんて、それはできないだろう。第一まだ、市民権だってないんだから、日本国民のままアメリカの兵隊になるなんてこと、ありえないよ」

「いや、そういう意味ではないんだよ。相手がアメリカ人であれ日本人であれ、戦で人を殺すという事が出来るのかと聞いているんだ」

村長の息子として育ち、長兄はすでに村役場の官吏であり、次兄は内地で大学予科へ進んでいて、当時の皇民化政策をまともに受けて育った盛徳は、貧しい家庭に生まれた国民小学校卒業の宗吉とは、日本国に対する思いが違うのは仕方のないことだと理解はしている。これ以上の話題には触れないように、盛徳は手を左右に振りながら、

「なあ、宗吉、もし俺がだよ、日本兵として戦うのを選んだら、お前はどうする」と核心にふれてみた。

「もちろん、ハワイでお前の無事と日本国の勝利を願ってるさ」

そう、答えた宗吉の顔を盛徳はじっと見つめた。小さいころより同じ村で育ってきた二人の上に輝く満天の星が故郷沖縄の夜空をそれぞれの心に映し出していた。

真栄は夢の中で三味線を弾いていた。息子や息子の嫁の顔、孫の笑う顔、近所の村の人々、互いに交わす正月のあいさつ、わずか二カ月ほど前の事だが、それぞれの行方は全く分からない、離れ離れになったらこの穴の中で落ち合うことは決めてあった。激しい銃声はすでに聞こえなくなっていたが誰も帰ってこなかった。真栄と孫の加那だけがじっと待っていた。湿った洞窟の中に切り倒した松の木で足場を組み、その上に家の床板をはがして敷いた簡単な寝床の上で夢の中を巡っていた真栄の耳に、「デテコイ、デテコイ」と今度は先ほどとは調子の違った日本語がはっきりと聞こえてきた。穴の入口で中の様子をうかがっている気配に、真栄は孫の加那をきつく抱き締めた。そして穴のさらに奥へと音を立てずに後ずさりし始めた。穴は奥が深く真栄と孫の加那がいる場所は入り口からかなりの距離があった。穴の奥には水がどこかへ流れていた。もし、敵がこの穴の中へ入ってきたら隠れようと奥には横穴も掘ってあった。その横穴へ向かって静かに体を進めた。

「Hey, Pete, be careful, seems nobody here, lets get out here」(おい、ピート、注意しろ、誰もいないようだ。ここをでようぜ)米兵の声が入口の方から聞こえてきた。

「I feel somebody inside over there」(誰かがいるような気がするんだが)声をかけられたピートは立ち止って答えた。先ほどの人の気配が気のせいなのだろうかともう一度耳をすませた。

「Hey, Let’s get out!」(おい、もう行こうぜ)穴の入り口で、こんどは別の米兵の声がした。少し間をおいて「OK, I’m coming」(ああ、もう出るよ)と答えてピートは穴の中から外へでた。

「Pete, DETEKOI DETEKOI is Japanese? What meaning?」(ピート、DETEKOIって、日本語か、どういう意味なんだ)ピートに聞いたボブはニューメキシコ州の出身で、ニカラグアからの移民である。第二海兵師団、第八連隊でサイパンの戦いにも同じく戦った戦友だ。

「Yap, DETEKOI is get out, that’s the one only I know Japanese」(そうだな、出て来いという意味さ、唯一知ってる日本語さ)

「Who teaches ?」(誰に教わったんだい)

「My Okinawan friend in Hawai」(ハワイの沖縄の友人に)

穴の外へ出て、歩きながらピートは宗吉の姿を思い浮かべた。「ピート、沖縄には洞窟がたくさんあるんだ。きっと、その穴の中に隠れている人が居るに違いない、攻撃する前にデテコイと日本語で声をかけてくれ、頼む、これだけ覚えてくれと訴える宗吉はこの焼け野原の彼の故郷で一人でも多くの人を救おうと走り回っていた。その姿に戦火に逃げまどう故郷シシリアの人々を思い、ヨーロッパ戦線へ送られた同じハワイの日系二世部隊の兵士と、沖縄で戦う自分の姿を重ね合わせて思い描いた。ここはサイパンとは違う。宗吉の故郷沖縄なのだ。米海兵隊第二海兵師団第八連隊の兵士として、ピートは既にサイパンやガタルカナル島での戦いにも参加をしていた。ガタルカナルでは日本軍のバンザイ攻撃を、サイパンでは民間人がバンザイ岬で飛びこむのを見てきたのだ。そのたびに自分の知っているハワイで暮らす日本人と目の前で戦う日本兵とは同じ日本人と思うことはできなかった。しかしここは自分の友人宗吉の故郷沖縄なのだ。彼が宗吉と再会したのはサイパンの戦いが終わり、米国本国へ帰還する日を待っていたサイパン島でのことである。米国第二海兵師団はガタルカナル、タラワ、サイパン島で日本兵と激しく戦い兵力の消耗が激しく、サイパンの戦いののち本国への帰還が決定されていた。ピートもこれで帰れると喜んでいたが、なぜか所属する第八連隊だけは沖縄攻略に参加することとなったのである。沖縄攻略に当たり急遽米国本土より情報部隊の増員としてやってきた宗吉と再会した時は、お互い嬉しい半面、困惑もあった。ピートは宗吉に聞いてみた。

「宗吉、どうして日本兵は降伏をしないで自殺行為を繰り返すんだ。確実に死ぬことが分かっていて突撃をしてくるんだよ、それが最後の一人が死ぬまで続くんだ。全員が死ぬまで続くんだよ。恐ろしいよ、しかも民間人までもが捕虜になることを嫌い死を選ぶんだ。その姿を見ていると恐ろしいよ、どうしてなんだ」サイパンでの民間人の自決、タラワやガタルカナルでの日本兵のバンザイ突撃の話を聞いた宗吉は涙を流すだけで何も答えてはくれなかったが、これだけは覚えて欲しいと教えてくれたのが「デテコイ」である。サイパンでの民間人の巻き添えと戦闘終了後の捕虜の扱いに手を焼いた米軍は、沖縄攻略と占領にあたりサイパンとは比べる事のできない多くの民間人の保護収容を予測し、約5,000人の日系人二世兵を沖縄へ連れてきていた。宗吉はその中の一人であった。

1940年(昭和一五年)、米国政府は全米で徴兵制度を再導入し、ハワイで徴兵を受けたピートは宗吉と故郷イタリアを巻き込み始めた「戦争」について話をしたことがあった。ピートが入隊する前の晩の事である。当時の米国はまだ参戦はしていなかったが、アメリカへ移民した多くの外国籍の居住者にとっては、兵役につく事が米国籍を取得する近道であった。宗吉よりも2歳年上の彼はイタリア人らしく陽気で女好きである。もし、米国が参戦して、故郷、イタリアで戦うことになったらどうするんだという宗吉に、そのときはそのときに考えるよ。まだ米国は戦争に参加してないんだぜ、国籍を取る事が先決さとピートは楽観的に考えていた。しかし、それから翌年の12月に日本軍の真珠湾への攻撃により、米国は参戦することになる。米国はイタリア、日本と戦うことになった。それぞれの国の移住者たちは身の振り方に大きな悩みを抱えていた。米国兵となって故郷と戦うかこのまま敵性米国居住者として身を潜めて暮らすかである。そんな中、ハワイの日系社会では日本軍がハワイへ上陸したときの為にひそかに組織を整備し、準備をしておこうと移民一世である親たちの動きもあり、当然のごとく排日運動がおこり日系人への風当たりが強くなりだした。米国の生活にすっかり慣れた二世たちの間には自ら進んで入隊する事により、米国への忠誠心を表す事を選ぶ者も出てきた。宗吉は二世ではない。米国生まれの彼らのように忠誠心を示すということが入隊への動機にはならなかった。宗吉は悩んだ。ハワイへもし日本軍が上陸してきたら、自分は日本人としてアメリカ人と戦うのか、アメリカ人として日本軍と戦うのか。しかも、沖縄へ帰った盛徳はすでに兵役にとられたとの噂は聞いていた。米兵となって同じ日本人と戦うなんてとてもそんなことはできない。絶対にできないと心に言い聞かせる毎日であった。軍隊へ入隊していく二世たちの目からも、近くに住む米国人達からも不信感と警戒の目でいつも監視を受けているようであった。12月7日の真珠湾の攻撃の後にすぐに再開したパイナップル農園でも、各国から移民をしてきた同僚たちは次々と入隊して行った。宗吉は相変わらず農地の開墾に励んでいた。火山灰で覆われた大地を耕作していくと、時には大きな岩にあたる。その溶岩が固まった岩を掘り起こし、土を入れなおしなだらかにしていくのだ。12月中旬とはいえ 日差しの強い炎天下のオアフ島の大地を黙々と耕していた。

宗吉がハワイで身を寄せていた母方の遠い親戚に当たる当山勝は、ハワイへ移住して既に25年以上になり、独立をして沖縄の物産を販売する小さな商店を経営していた。ハワイで同じ村の新垣家から嫁を呼び寄せ男の子を二人もうけていた。21歳になる長男のジョセフ・ハジメ・当山と18歳の二男のマイケル・ジロウ・当山である、二人の名前は当山勝が元働いていたパイナップル農場経営のイタリア人、ビアネロに付けてもらっていた。そこで、勝の紹介により宗吉は働いているのである。勝の誠実で献身的な働きに、ビアネロは何かにつけて相談に乗ってやり、勝が独立するときの資金の面倒まで見ていた。

その当山家でも二世兵として入隊するという長男ハジメの決意を聞いた勝が、「ハジメ、戦はお前が考えているようなものではないよ。醜く、酷く、あっという間に人はばらばらになって死んで行くんだよ。そんな英雄のような話はないよ。それこそあっという間に虫けらのように死んでいってしまうんだ。逃げ出したくても逃げ出せないのだよ」と複雑な胸の内を語った。

「父さん、俺はアメリカ人だよ。自分の国の為に尽くすことがお父さんやお母さんの名誉の回復にもなる。一石二鳥ではありませんか、ピートだってもう入隊し訓練を受けているのですよ。アメリカで生まれた僕が兵役につかないなんてそんなこと出来ないですよ。それに俺が入隊しても後はマイクがいるではありませんか、ハワイ出身の二世部隊で戦いに行けるなんて夢のようだ、見事に戦って見せますよ」ハジメはそばにいた宗吉に聞こえるように大きな声で言った。身の振り方に悩んでいた宗吉への圧力である。

宗吉が当山家に来た1937年にはすでに防衛隊ができていて多くの二世の若者とともにハジメはそこへ入っていた。それが、1940年の徴兵制度復活により正式にアメリカ陸軍に組み込まれることになったのである。組み込まれることになったものの防衛隊の半数以上が日系二世であり。1941年の真珠湾攻撃以降、敵性米国人である日系二世兵の対応に米国政府は頭を悩ませていた。ある程度の訓練を受けていた防衛隊の日系二世兵たちの中には、米国政府の二世兵に対する対応に不信感と不満を漏らす者たちが大勢いた。米国兵として出征できないなら何のためにこれまで訓練を受けてきたのだ。俺たちの生まれ故郷である米国への忠誠心を疑うなんてどうなっているんだという不満である。その多くは一世である父親を説得するのに苦労をしていた。そこへ正式な二世部隊の誕生である。米国政府はハワイの二世兵士を本国のミシシッピー州に全米の二世兵とともに集めて訓練をすることにした。ハジメはその一人である。これがヨーロッパ戦線にて華々しく活躍をした442部隊の前身となるハワイ出身者で編成された第100歩兵大隊である。ハジメはその部隊の一員として既に出征した。その時のハジメの無言の問いかけが宗吉の胸の中から消える事はなかった。

米国が参戦したその三年後、1944年の七月に宗吉は満21歳の徴兵年齢に達した。いよいよ自分の身の振り方を問われる年齢になったのである。米国へ来て既に八年が経っていた。すっかり米国の生活にも慣れてきていた宗吉だが、その心中は開戦以来ずっと煩悶を繰り返していた。兵役へ就くか、敵性米国人として収容所へ行くか、逃げる事は出来ない。選択肢は二つのうち一つである。

「兵役へ就いたら人殺しの訓練を受けて戦地へ行かねばならない。そこでは理屈抜きで戦わねばならない。自分が生きるために殺さなければならない」宗吉には国の為、米国や日本国の為だという気は全く起こらなかったが、自分自身が抜き差しのならない事態に巻き込まれた事をはっきりと自覚した。永住権は既に取ってあるが国籍は日本国のままである。このままでは収容所いきである。将来も米国で生きていくなら米国に忠誠を誓い兵役につくことが近道である。しかし、それは同じ日本人と日本国とを敵に回し戦うことである。しかも、宗吉には俺は日本人なのか。沖縄人は日本人なのか。これは日本人が勝手に起こした日本人の戦争ではないのか、と。次々と疑問が湧いてきては答えに窮した。逃げ出したかったがすでに友人たちは道を選んでしまっていた。

そんなある日の当山家の夕食にピートの伯父であり宗吉の身元引受人であるミスタービアネロが同席をした。話題はもっぱら、戦地へ行ったピートとハジメの事、そしてこの戦争の行く末の事であった。宗吉はできるだけ話題に触れようとせず、しかし、無視するわけにもいかず黙って二人や家族の会話を聞いていた。

そこへミスタービアネロが宗吉へ問いただした。

「ソウキチ、ピートは海兵隊として太平洋の南の島々へ戦いに行ったよ、君と同じ日本人と戦う為にね。そしてマイクはヨーロッパ戦線の俺の故郷イタリアでドイツ軍やイタリア人と戦っているらしい。どちらも激しい戦いをしているらしいよ。君はこのままでいいのか。自分のおかれた立場に目をつむる事は許されないよ。おれは先の大戦に参加したよ。そこでは敵も殺したが友人もたくさん失ったよ。運よくいき残ったものの、友人の親たちからは何であんただけ生き残って、うちの子はどうして死んでしまったんだと、言葉には言わなかったがそんな目をして見られたよ。決断しなければ一生後悔することになるんじゃないかな」

ビアネロ氏やハジメの父勝の戦地へ子供を送った気持ちは宗吉の胸に痛いほど伝わっていた。ハジメは米国生まれで米国人だ。ピートはイタリア人といっても白人だ。日本人ではない。おれは沖縄人で日本人だ。かれらとは立場が違う。自分勝手な理屈をつけては煩悶していた。そして、ふと盛徳の事を思い出した。かれが言った事「おれは立派に戦って見せる」きっと彼の事だ。いま頃はどこかの戦地で戦っているに違いない。戦争が終わり再会した時にはなんて言い訳できるんだろう。人殺しはいやだから兵役につかなかったと言い訳できるのだろうか・・・・・。俺は別に平和主義なんてそんな理想などない。ただ、態度を迫られてもどうしていいかわからないだけなんだ。黙って苦悩の表情を見せた宗吉の姿を見て当山勝は彼に向って言った。

「国の為に戦うという事なんて馬鹿げているとは思うが、兵役に参加をした全員にはそれぞれの思いがあって決断をしたんだろう。でも、ほとんどの人が家族の為にと決めたと思うよ。こんなことになるなんて想像もしていなかったよ。僕はハジメを戦争に行かせることになるなんて、しかもイタリアで戦うことになるなんて、なんとも言いようがないよ。この胸の内はだれにも分からないよ。家族だけが分かち合える事だ。大きな流れに身をゆだねる事は必ずしも自分を捨てることにはならないと思うよ。すべては自分で決める事なのだから」

家族、宗吉は遠く沖縄へ住んでいる家族の事を思った。渡米以来続けてきた家族への仕送りは開戦以来滞っている。

アメリカへ住んでいる俺の事を随分と心配しているだろうな。父や母がここへいたらなんというだろうか・・・・。

宗吉はその夜夢を見た。幼いころ父と一緒に読谷村の海岸で泳いだ事。キビ畑で作業をしながら青い海を眺めた事。空を見上げれば真っ青な空に太陽がいつもキラキラと眩しく輝いていた事を。明るい夏。遠くに見える水平線のかなたには知らない世界がある。「いつかは」と胸を膨らませていた事。那覇の港から横浜へ向かう途中の島々、真っ暗な海と真っ暗な空、そこで輝いている無数の星達。船の周りを飛び交う魚達。初めてみる横浜の街。そこからは海と空と太陽と月と星達だけ。耳に聞こえるのは波をかき分ける船の低いエンジンの音としぶきを上げる波の音。行けども行けども限りない海。船の船尾に続く白い波頭だけが遠くに消えていく海、そして盛徳と語り合った日々。

「宗吉、もう引き返せないよ」と盛徳が言ったとこで目が覚めた。

誕生月の翌月の八月に招集を受けた宗吉の心はすでに決まっていた。周りの若者が次々と兵役に参加していたからであり、一年前のハジメの問いかけに応える為でもあった。参戦1年後の昭和17年に本格的な攻勢を計画した米国は、太平洋の島々を攻略するに当たり、日本軍の通信傍受と暗号解読の為に日本へ留学した経験のある者、または日系二世兵を情報部へ組み入れる計画をしていた。それに加え、南洋の諸島を攻略するにあたり予想される民間人の収容の為にも二世の通訳を必要としていた。そして沖縄には独特の方言がある事もすでに承知していた。幸いにも戦闘部隊ではなく情報部隊へ入隊することとなり、通訳としてやってきた宗吉はピートとサイパンで再会したのである。

宗吉はまだ故郷を見つめ続けていた。1945年4月1日、快晴、北東の風、沖縄本島の西海岸に集結した米軍の艦船から、読谷村、嘉手納村、北谷村にかける海岸に間もなく上陸用舟艇が発進しようとしていた。日本軍の攻撃は全くなく静かな朝であった。本島攻撃部隊の上陸開始時間は午前八時半、それに先立って午前五時半から始まった砲撃は故郷沖縄の大地に突き刺さり、もうもうと上がる土煙りに島影は全く見えなかった。あの煙の下に比謝村がある。読谷の海岸がある。村の人たちがいる。宗吉は声を押し殺して見ていた。午前八時、さらに激しくなった砲撃のなか、ついに上陸開始の信号旗が翻った。次々と波しぶきをあげて海岸に向けて進んでいく上陸用舟艇をみながら身を硬くしていた。宗吉の所属する部隊の上陸は読谷村攻略の第六海兵師団が上陸後に地域を確保した後の予定である。早くとも激しい戦いの後の3、4日後であろうと思われていた。ところが、日本軍からの反撃は全くなく上陸後わずか一日で太平洋の見える反対側の東海岸まで米軍は進撃した。予定より早く上陸することとなった宗吉は通常の攻撃部隊とは違い武器は待たされていない。代わりに身を守る兵士が二名ついている。彼の任務は日本兵や住民への投降の呼びかけである。彼が海岸に降り立った時、傍らの兵士が宗吉を振り返り声をかけた。

「おい、ショーティー、天気は良いし、風も気持ちがいい、海も空もきれいだし、まるでピクニックのようだ。どうだ、久しぶりに故郷へ帰った気分は」

それに応えて「まるでハワイのようだ」と、もう一人の兵士が声を上げた。

宗吉は二人に応えず足早に砂浜を踏みしめて前線の司令部へ向かった。司令部ではすでに彼を必要としていた。司令部へ着いた彼にすぐに命令が下った。「この辺りには日本軍のかわりにかなりの住民が隠れているようだ。投降を呼びかけてくれ。ただし、サイパンのように向かってくるようだと容赦はしない。詳しくはボブに聞いてくれ。おい、ボブ、この村の出身のこちらの沖縄二世兵に任務を説明しろ」呼ばれたボブは宗吉に向かい「お前か、沖縄出身の二世兵は。米国生まれの二世兵では住民の言っている事が良くわからないらしい。ここは日本語が通じないのか。すでに、何人か収容している。彼らと話をしてくれ、まだほかに隠れている住民がいるらしいが、どこへ隠れているのか聞き出して投降を呼びかけろ。まったく、こちらが助けようとしているのに、勝手に死んじまうんだから」と言うと、ついてこいと手招きをして歩きだした。

宗吉は「俺は二世兵ではない。米国生まれではない。この村の生まれだ」と叫び出したいのを必死にこらえて、無言でボブの後について行った。もうすぐ村の誰かに会える。ボブを追い越さぬよう気をつけてその後ろを歩いた。しばらくしてボブの肩越しの先の方に懐かしい故郷の人々の顔が見えてきた。七、八人であろうか。学生服を着た小さな子供もいる。モンペ姿の女性も。着物を着ているのはオジィかオバァに違いない。たまらなくなって宗吉は足を速めボブを追い越し彼らに向かい叫んだ。「シンガキ・ソウキチヤイビン、ワンヤ、ヒジャムラヌ、シンガキソウキチヤイビーシガ、ウンジュタームルヌーンネエビランナ」(新垣宗吉です。私は比謝村の新垣宗吉ですが、あなた方、皆なんともありませんか)アメリカ軍に早々に捕えられて、これから自分たちはどうなるのだろう、むごたらしく殺されるのだろうかと不安に思って肩を寄せ合っていた人々は、走りよって来た米軍の軍服に身を包んだ兵隊に突然方言で声をかけられてさらに身構えてしまった。

その後の宗吉は住民が穴の中に隠れていると聞いては投降を呼びかける事を繰り返すのだが、隠れている人々は必ずしも彼の呼びかけに応えるわけではなかった。残念なことに目の前で自決をされた事もある。彼は投降してきた人の中に年寄りが多いのに気がついた。一緒に隠れている人の中に若い女性や日本兵がいる場合と、年寄りが多くいる場合とではおのずと結果が違うようであった。年端もいかない若い男の子や若い女性が竹やりを抱えて飛び出して、目の前で銃弾に体を引き裂かれるのも見た。宗吉は心の中で祈りながら、毎日、来る日も、来る日も投降を呼びかけていた。米軍上陸後のわずか四日後の四月四日には真栄が潜む比謝村周辺では既に戦闘は終わっていた。抵抗らしい抵抗を受けずに上陸した米軍は上陸地点の読谷村から中部の中城村まですでに進軍していた。

真栄は「デテコイ」と呼びかけていた先ほどの米兵が去っていくのを、孫を抱きしめながらじっと待っていた。全く人の気配がしなくなっても長い間じっとしていた。あまりにも強く抱き締めたので孫の加那が嫌がって動いた。

「もうすぐ夜になるからね、夜になったらまた、外に出られるからそれまで我慢するんだよ。我慢をしていればお父さんも、お母さんも返って来るからね」同じ言葉を幾度繰り返して語りかけたであろうか、そのたびにけなげに黙ってこちらを見つめる孫を見て、真栄自身が挫けそうになるのを必死にこらえていた。米軍は夜になると野営地に引き返し、残存している日本兵の索敵は止む。激しい戦線はすでに遠ざかっていた。米軍の攻撃がやむこの時間帯が昼間に隠れていた人々が動く時間帯である。人々は飢えていた。すでに掘りつくされている芋畑に入り細い根っこを堀にいくのだ、たまに痩せた芋が見つかると大喜びである。あるいは焼け残った家に食糧を探しに行ったり、井戸に水を汲みに行くのである。加那の母親佳子はつい一週間前の四月の終りに食糧を求めに行ったきり帰ってきていない。父親真一は3月に入り突然の招集を受け入隊していた。それ以降は真栄と加那の二人きりである。真栄は加那を連れて穴から出た。空には満月とともに満天の星が輝いていて、月の光を受けた芋畑は青白く輝き、その先には米軍の野営地の明かりが煌々とともっているのが見えた。

四月一日の米軍上陸を前に上陸地点を防衛していた日本軍は大半が南部へ移動していた。三月二十六日の米軍の艦砲射撃と空爆が激しくなって以来、米軍が上陸してきたら水際で壊滅するという事を信じて、それぞれの壕の中に隠れていた住民は、日本軍が既に撤退していた事を全く知らず、四月一日の米軍上陸の際も隠れている壕の外から聞こえる激しい砲弾や爆撃の音を、日本軍と米軍の交戦の音と信じていた。それがいつの間にか止み、昼ごろには先ほどまで聞こえていた耳をつんざくばかりの砲撃は全く止んでしまった。恐る恐る様子を見に壕をでた住民はびっくりした。海岸はすでに米軍の上陸部隊で埋め尽くされ、こちらへ進撃してくる米兵の姿が目の前に見えたからである。慌てふためいて壕へ帰って来た住民の報告に、残ってそれを聞いた人々はこれからの身の振り方を予測して絶望した。ある壕では鎌や鍬、竹やりで身構え、ある壕では自決の相談が持ちあがった。そして、しばらくすると聞きなれぬ発音の「デテコイ、デテコイ」が壕の外から聞こえてきたのである。

上陸四日後の四月四日に米軍は、早くも近辺の住民約千人余りを砂辺海岸に急ごしらえで作った収容所に保護している。そして翌五日には読谷村比謝にアメリカ軍政府を設立し、アメリカ海軍C,W,ニミッツ大将が軍政府総長として布告第一号を発している。以後今日にいたるまで米軍の意向を無視できない「現実」のはじまりである。

隠れ住んでいる壕の中に戻り加那とともにすっかり寝入っていた真栄は物音に気がついた。穴の中を外からうかがっている様子が伝わって来た。誰かが穴の中へはいてきたようだ。

「誰もいないようです」真栄の耳にしっかりとした日本語が聞こえてきた。

「米軍はこんな穴の中にはいない、誰かいたとしても住民の人達だろう、脅かさないようにしろ」苦しそうな途切れがちの命令口調の声が聞こえた。

「誰かいませんか、誰かいませんか」穴の中で声がこだました。

「誰かいませんか、私達は日本軍です。敵ではありません」再び声が穴の中でこだました。

「誰もいないようです」

「よし、ここで休もう」命令口調で苦しげな声は上官であろうか、怪我をしているようである。

「准尉殿、もう少し奥へ行きましょう。奥で横になってください。包帯を変えます。怪我の具合はたいしたことはありません。北部の友軍のもとへたどり着いたら、すぐに良くなりますよ」

「しっかりして。ください」三人目はたどたどしい日本語だ。

洞窟の中に入って来た日本兵は三人。穴の奥へ進んでくる。耳を澄ませてじっと身構えて横穴に隠れていた真栄は、そのやりとりにこれまでの日本兵とは違う響きを感じた。まだ規律は保たれているようだ。しかし、真栄の緊張感が伝わったのか腕に抱きしめている加那もすでに目を覚ましていた。これまで幾度となく日本兵がこの穴の中に入って来ていたが、その荒々しい口調を聞くたびに、姿を見せず静かに隠れていた。

三人は穴の途中で腰をおろしたようだ。しばらくしてその内の一人が歌を口ずさむ低い声が聞こえてきた。

その兵士が口ずさむメロディーを真栄は覚えていた。日露戦争の時に朝鮮半島へわたり、釜山から列車に乗った事を思い出した。休暇を利用して満州鉄道へ乗り半島の街へ出かけた事も。そこで見た朝鮮の人々の暮らしぶりを思い出した。

米軍が上陸をするちょうど一年前の昭和十九年三月二十九日、ようやく沖縄諸島に兵力を配備することになった大本営は、新設された沖縄守備隊第三十二軍の軍司令部を飛行場設営隊とともに送り込んだ。守備隊の主な任務は飛行場の建設を急ピッチで推し進める事であった。奄美を含む琉球列島の島々に飛行場を建設し、本土へ迫って来る米軍を迎え撃とうという作戦である。沖縄の住民は男子のみならず、婦女子も飛行場建設にかりだされ、それでも足りずに朝鮮半島より軍夫として朝鮮人を送り込んでいた。七月のサイパン陥落後にようやく数万の兵が内地からだけでなく、満州や朝鮮半島から、各地の慰安婦とともに沖縄へやって来た。急激に増える日本兵の宿舎はなく、島々の学校という学校の校舎が兵隊の駐屯地となった。上級や下級の将校たちは疎開した住民の空き家を借り受けたり、敷地内の離れを借りて住んでいた。中国戦線で戦った兵士たちの中には、住民の婦女子と問題を起こす者もいた。各村の住民からなる防衛隊だけでなく、若い婦女子も義勇隊として、そして小学校の高学年から中学生に至る男子は毎日、飛行場建設や守備陣地の壕堀にかりだされていた。それらすべての人々が米軍上陸直前の三月にそのまま守備隊へと編入されたのである。歌を口ずさんでいるのは飛行場建設の軍夫から招集された朝鮮人であろうと真栄は思った。低く唸るような物悲しく流れるメロディーはやがて静かに消えていった。

翌朝、再び真栄は誰かが呼ぶ声で目が覚めた。今度は沖縄グチである。真栄の耳にはっきりと聞こえるのは既にその声の主が穴の中に入ってきているのを気付かせ、真栄は思わず身を固めた。

「キンジョウセンセイ、マエシロセンセイ、デテキテクダサイ。シンガキソウキチデス。センセイオボエテイマセンカ。キンジョウセンセイ、マエシロセンセイ、シンガキソウキチデス、デテキテクダサイ」

新垣宗吉の叫ぶ声が暗い洞窟の中で響いた。宗吉は保護された住民から、村の大半の人々は三月二十三日の日本軍守備隊の疎開命令により、北部へ疎開したものと南部へ疎開した者、そして村の壕へ残った者がいる事を聞いていた。彼が学んだ尋常小学校の恩師たちは村の防衛隊とともに、壕の中へ潜んでいる事も聞いていた。どこそこの壕へ住民が潜んでいると聞いては駆け付け、壕の中へ向かって呼びかける毎日が続いていた。

「ピート、この穴か、だいぶ奥が深いようだ」宗吉の手に持った懐中電灯の明かりがうっすらとした暗闇の中を探っている。

「ソウキチ、確かに人がいるような気がするんだ」

宗吉は再び穴の中で声を上げた。

「ワンヤ、ヒジャムラヌ、シンガキソウキチヤイビーン、ヌーンネエランド、イジチメンソーレ」(私は比謝村の新垣宗吉です。なんともありませんから、出て来てください)

壕の中の三人の日本兵もすでに気が付いていた。三人とも武器を構えているようだ。

穴の中に入って来たのは四人の米兵で、その内の一人が沖縄の方言で呼びかけている。

「ピート、僕がもう少し奥へ入り見てくるから少し離れた後ろから援護をしてくれ、この間の様に日本兵が潜んでいるかもしれないから」

住民保護と宣撫が任務の二世兵や沖縄出身の宗吉達に武器は与えられていない。銃剣と手榴弾二個を腰にぶら下げているだけである。代わりに宗吉を守る二人の兵士が常に傍らに寄り添って行動をしていた。その二人にも穴の入口にいるように指示をし、宗吉は一人で穴の奥へと進んで行った。確かに人の気配がする。宗吉は用心しながら一歩、一歩声を出しながら奥へと進んで行った。

「ワンヤ、ヒジャムラヌ、シンガキソウキチヤイビーン、ヌーンネエランド、イジチメンソーレ」(私は比謝村の新垣宗吉です。なんともありませんから、出て来てください)

落ち着いた声が壕の奥へと近づいてきた。壕の奥の横穴へ加那とともに隠れていた真栄はその声を聞き「まさか」と耳を疑った。八年前に村からハワイへ移民をした人々の中に、確かに新垣宗吉という若者がいた事を覚えていたからである。突然、真栄は異様な不安に襲われた。真栄と呼びかける宗吉との間には三人の日本兵がいるのである。それに気がついた真栄は「加那、ここでじっとしているんだよ。何があっても動くんではないよ」と声をかけ、宗吉に銃を構えて今にも攻撃をしようとしている三人の日本兵へ向かって走り出した。途端に一発の銃声がして、またたく間に壕の中で銃声が鳴り響いた。宗吉を心配して背後からついてきたピートが奥で動いた真栄の蔭に気がつき放った一発の銃声が引き金となり、米兵と三人の日本兵との間で銃撃戦が始まったのである。

身を伏せた宗吉の近くに日本兵の投げた手榴弾が転がって来た。宗吉はそれを手でおしやり身を固くした。手榴弾の爆発はなかった。銃撃戦はすぐに終わり仲間の米兵に助けられて壕の外へと出た宗吉は右足に傷を負っていた。

一方、真栄も足と腕に傷を負った。銃声が止んで米軍が去って行った事に気がついた彼は声を振り絞って加那を呼んだ「加那、早く、早くこっちへおいで」この次には情け容赦のない攻撃があるに違いない。真栄は焦った。倒れている真栄の傍へ恐る恐るやって来た加那の右腕に、真栄は腰にぶら下げていた白い巾を巻きつけ「さあ、今のうちに穴を出るんだ。早く、早く」震えて声も出せずにそばに立っている加那に向かい真栄はさらに焦った。「オジィの言う事を聞いてくれ、早く穴の外へ出るんだ、行け、行け」恐怖で震えの止まらない加那は血を流しているオジィや近くで倒れている日本兵を見て、次に自分の身に何が起こるのかを察した。そして体を震わせながら穴の入口へと向かった。穴の外では再び攻撃へ移ろうと準備をしていた米兵が、右腕に白い布を巻いた幼い少女が突然現れたのにびっくりした。驚いて加那を見つめる米兵の顔の向こうには青い空が大きく広がり白い雲が漂っていた。

宗吉の腕の中で保護された加那はまだ震えていた。震の止まらない加那に宗吉は声をかけた。「シンパイネーラン、ワンネーウチナーンチュヤンド、ワンガムルマモティトゥラスンドー、シワサンティンシムンドー」(心配ないよ。僕は沖縄人だよ。僕が守ってあげるから、心配しなくていいんだよ)腕の中で震えの収まらない女の子の首に何かが掛っていた。宗吉の不審そうな眼に気付いたのか、彼女は懸命に宗吉の手を振りほどき、その袋を宗吉の目の前に差し出した。差し出されたのはお守り袋である。宗吉に見るように迫る加那の手から、その袋を手渡された宗吉は袋の中身を空けた。中には一枚の写真とチラシが入っていた。チラシは米軍が上陸前に空から巻いた沖縄住民へ投降を呼びかけたチラシである。おそらく母親がそのチラシを拾い、万一の為にお守り袋に写真と一緒に入れていたのであろう。写真には四人が写っていた。その写真の裏に英語で「この子は私達の子供で加那といいます。どうか、私達にこの子を返してください」と住所と名前が書かれてあった。

宮城真一と書かれている名前と住所を見て、宗吉はあわてて、「ピート、住民がまだ中にいるかもしれない、もう一度声を掛けさせてくれ」とピートに叫んだ。直に火炎放射器を肩に背負った応援の兵士がやって来る。それまでにもう一度声をかけるというのである。

「宗吉、その足では無理だ。それより、この子に聞いてくれ、他に人がいるのか、この子の家族がいるはずだ。あと何人いるのか聞いてみろよ」

宗吉は体を震わせながらそばに立っている加那に聞いてみた。「あと、誰が穴の中にいるの」加那は答えない。「お母さんは、お父さんは、誰がいるの」宗吉は足と腕の痛みに耐えながら、震える加那を再び抱き寄せ、加那の耳元にやさしく囁いた。「お父さんやお母さんは」突然加那が声をあげて泣き出した。それを見た宗吉は気付いた。そして、二人の様子を見ていたピートにあわてて「ピート、まだ人がいる。住民がいる、もう一度声をかけてくれ」と頼んだ。

「OK,ソウキチ、声をかけてみるよ」恐る恐る穴の入口に近づいたピートは穴に向かって「デテコイ、デテコイ」と叫んだ。

真栄はまだ生きていた。倒れたままの真栄の耳に「デテコイ」が届いた。そして、同じく「デテコイ」が耳に届いた日本兵がいた。傷ついて倒れているその日本兵は腹を撃たれ苦しそうにあえいでいた。そして、懸命になって左手を地面にたたきつけている。彼の左手には手榴弾が握られていた。

ピートは「デテコイ、デテコイ」と間を置きながら繰り返し穴に向かって叫んだ。瞬間、轟音とともに穴の中から吹き寄せてきた猛烈な爆風に、穴の入口の横から声をかけていたピートは横へ吹っ飛んだ。その音にびっくりして振り向いた加那は「オジィ」と力の限りに叫んだ。

途切れかけていく意識の中で「オジィ」と叫ぶ加那の声を確かに聞いた真栄の目には、笑顔で走りよって来る加那の姿が最後に映った。

「お母さん、盛隆兄さん、姉さん元気ですか。お父さんも防衛隊で頑張っているのでしょうね。盛次兄はどうしていますか。僕は健康、元気です。今朝もウグイスの鳴き声で目が覚めました。写真を見てください。勇ましいでしょう。一日も早く立派な姿をお母さんにお見せできるように毎日、毎日、精進しています。お母さん、お体にはくれぐれもお気をつけてください。そして、お互い元気な姿でお会いしましょう。姉さん、よろしくお願いいたします。盛徳」

海に突っ込んだ飛行機とともに故郷の海へ沈んでいく盛徳は、腹巻きにいれていた手紙と家族の写真を飛行服の上から無意識に握りしめていた。波間すれすれに米軍の艦艇に迫った盛徳の乗った特攻機は今一歩のところで被弾し海へ撃ち落とされたのである。

その出撃前夜、盛徳は一か月前に書いてあった手紙と写真を何回も眺めていた。三月に入り、沖縄への定期船はなくなりとうとう出せずにいた。何時間も机に向かい書き終える事ができた手紙を慎重に腹巻きの中へと納めた。明日はこの手紙とともに故郷の空へと飛び立つのだ。そう心がやっと決まり横になった盛徳は目をつむり母の顔や父の顔、そして兄の顔、兄嫁の顔、兄の子供たち、学徒兵としてすでに兵役へ就いた盛次兄の顔、村を流れる比謝川、紺碧の海、青い空を思い浮かべて眠りへと落ちていった。

機体がばらばらになり海中へあっという間に没した特攻機を米軍の艦艇の誰も気にはしていなかった。傷ついた体に不思議と痛みは感じず、盛徳は海中へゆっくりと沈んでいきながら、目を見開いて海の中から空を見上げていた。故郷の青い海の中からようやく曙に輝きだした空が見え、そしてその向こうに真っ青なハワイの空が見えた。

「宗吉、目の前がオアフ島、遠くに見えるのがハワイ島だ」

「ハワイ島までだいぶあるよ」

「目の前のオアフ島に行くんだ」

「ハワイ島だろ、そう聞いてるよ」

初めてみるハワイの島々を船上から眺め、友人、宗吉と語り合った事が沈みゆく盛徳の脳裏によみがえって来た。宗吉の希望に満ちた顔を思い出した盛徳は自分の顔がほころんで来るのを最後に見た。

米軍が故郷沖縄を攻撃し始めた事を知ったのは盛徳が鹿児島県出水市の海軍基地で訓練を終了し、出撃する機体を待っている時であった。昭和十六年七月の最後の定期船に乗りハワイから横浜港を経由し故郷沖縄へ帰って来た盛徳は、翌昭和十七年に願いがかない満州へ渡り、満州鉄道放送局へと就職していた。いつかは自分の農園を持つんだと懸命に働いていた。しかし、満州へ渡った二年後の昭和十九年の十一月に招集令状を受け取った。令状は翌二十年一月二十日に鹿児島県出水市の航空隊へ入隊することと書かれていた。その前に一度故郷へ帰り家族に会いたいと願っていたが、すでに東シナ海には米軍の潜水艦が出没し、故郷へ帰る事ままならず直接出水市の海軍航空隊へ入隊していた。 そこで飛行訓練を受け、今まさに故郷沖縄の空へと飛び立とうとしていたのである。彼の機は三月二八日の深夜に飛び立ち、朝日の登りきらない未明に米軍へ突入する予定である。そこには宗吉の乗った米軍の艦艇が島へ殺到しているとは無論のこと知る由もなかった。

怪我をした宗吉はその後、後方の野戦病院へ送られ八月の戦争終結まで療養することになるが、病床で南部の戦いを聞くにつれ、枕に顔を押し付け声を押し殺しては泣いた。武器をもたずに丸腰で壕の中に入り投降を呼びかけて、逆に日本兵につかまり殺された仲間の二世兵の話も聞いた。早くから米軍にとらわれ自ら進んで村人へ投降を呼びかけていた住民が殺された話も聞いた。米軍の呼びかけに応じ投降しようと穴から出てきたものの、後ろから撃たれて殺された日本兵や住民の話も聞いた。そして、住民が集団で自決した話も聞いた。いたるところで人が毎日死んでいた。そんな中で二世兵でなくとも、沖縄生まれでなくとも、住民を助けようと懸命になって投降を呼びかける米軍兵士の話も聞いた。そして、その彼らの幾人かは投降を拒否する日本兵の銃弾に傷ついたり、命を落とした兵士がいた事も聞いた。ピートもその内の一人である。しかも、彼は八月十五日の終戦後にあくまでも投降を拒否して穴の中へ隠れていた日本兵を見つけ、戦争は終わったと呼びかける元日本兵の捕虜とともに狙撃されて命を落としてしまった。宗吉は故郷沖縄で家族に会う事はなかった。身寄りのない沖縄北部へ疎開していた彼の父、母、姉の家族は山中で逃げまどう中、飢えとマラリアで全員亡くなった事を同じ村の住人から聞かされた。

戦後にハワイに帰った宗吉はピートの伯父のミスタービアネロに悲しみの報告をした。そしてミスタービアネロから当山家のハジメがイタリアの戦いで命を落としたのを知らされた。当山勝とその妻はハジメの死をとても悲しんだという。宗吉はハワイに残っていた当山家のマイク・ジロウ・トウヤマのもとで勝の経営していた雑貨店を手伝うことになる。盛徳の行方だけが心残りであった。時折、晴れた青空に映る真っ白な満月を見ては、いずれは故郷沖縄で盛徳に会えるに違いないと信じていた。その時は積もる話を思う存分にしようと心待ちにしていた。

「チューヤ、トゥクベツアチサンヤー」(今日は特別暑いな)整然と並んで栽培されているサトウキビ畑の緑の葉のむこうに広がる藍い海に白い雲がゆったりと浮かぶ青い空、黄色に照りつける頭上の陽の光をうらめしく眺めながら体中に汗をかいて人夫の一人がため息をついた。

「クゥトゥシェー アチクナイッサーヤー」(今年は暑くなりそうだね)別の人夫が首に巻いた手拭で汗を拭きながら応えた。

「クゥトゥシヌ ムズクイヤ ナークーテーンシ ウワインヤー」(今年の収穫もあと少しで終わりだ)

四月の沖縄では時に真夏日がやって来る。そんな日は青い空に浮かぶ白い雲と一緒に時間がゆったりと流れる。2011年四月五日、嘉手納空軍基地に近い比謝村のとあるキビ畑でのこと。人夫たちは汗だくになりながら鎌を使って残ったサトウキビを刈っていた。切り倒されて視界が広くなった岡の方をみるとそこに小さな沖縄独特の亀甲墓があった。日傘をさした二人の婦人と幼い子供が見える。その人影に気づいた人夫が手を休めて、

「チューヤ シーミーヌヒ ヤガヤー」(今日はシーミーの日かね)

「アンヤガヤー,シーミーヤ センシュウ シ ウワタンドー、ヌーガナヌ ユージュガアティ ハカンカイヤ クーラランタンテー、ンカシェー シーミーヤ サカンヤタンドーヤー」(そうかな、シーミーは先週でおわったよ、何かの事情でお墓に来れなかったのだろう。昔はシーミーは盛んだったね)

「マーヌヤーヤティン ハカンカイ ウートートゥシーガ イチュタンドーヤー」(どこの家でもみなお参りに行ってたね)

「ナマンヤンドー」(今もそうさ)

「ンカシフウヌハカ ムッチョールチュターヤ ナマンヤンテー」(昔風のお墓が残っている人はそうだろう)

「アチサルムンヌ デージヤンテー」(暑いのに、大変だね)お墓の前の数人の中に、年老いたおばあさんを見て別の人夫が手拭で汗を拭きながらつぶやいた。

日傘をおりたたんで持ってきた箒で墓の前を掃き出したのはすっかり髪の毛が白くなった加那であった。同じく掃除を手伝っているのは加那の一人娘の春子と、傍らでその様子を見ているのがその子供たちで四歳になる娘のメイと七歳になる男の子の聖哉だ。ここが宮城家の墓だと知ったのは随分と後の事で、母親の佳子が覚えてくれていたからである。頭上を行く戦闘機の突然の爆音にびっくりして加那は体を震わせた。そして、亡くなった祖父真栄を思い、今だに骨の見つからない父の事を思い、苦労して女手一つで育ててくれた母親、佳子を思い冥福を祈った。

母親の佳子は義父真栄と娘の加那の三人で壕の中に隠れていたが、四月二十八日に乏しくなった食糧を求めて芋畑を掘り起こしている時に、米兵に見つかりあわてて逃げるところへ腰を撃たれて動けなくなり、そのまま米兵に保護されたのである。新垣宗吉に助けられた加那は石川の民間人収容所に連れて行かれ、戦が終わってもしばらくは越来村(ごえく村)の戦争孤児院へ入っていた。そこへ我が子を探しに来た母親佳子と再会したのである。佳子は沖縄戦が終了するまで同じく石川収容所の病棟にいたが、病床の彼女はそこで我が子に会う事はなかった。加那は増え続ける戦争孤児たちを収容する為に作られた孤児院へすぐに移されていたからだ。傷の癒えた彼女が家族を求めて各地の収容所を探し求めて尋ねだしたのは、八月十五日に戦争が終わってからである。収容所の病床で南の戦線から保護されて送られてくる負傷した住民から、激しい戦の様子を知った佳子は、それでも一縷の望みを胸に夫真一が自分を探しに来る事を待ち望んでいた。しかし夫が探しに来る事はなかった。保護された収容所の住民がそれぞれの村へ帰るよう許されたのは戦後の九月に入ってからである。傷の癒えた佳子は真っ先に隠れていた豪に駆け付けた。そこで見たものは三人の日本兵の死骸と義父真栄の変わり果てた姿であった。加那の手掛かりはみつからず収容所を歩き回り、やっとのことで佳那を探し当てたのである。

「おばあちゃん、大丈夫」孫の一人がやさしく聞いてくるのに「ああ、大丈夫、あの飛行機の音がうるさいからね、びっくりしたんだよ」嘉手納の基地の近くにある宮城家先祖の墓に、毎年四月に行われるシーミー祭(清明祭)には母とともにお参りに来ていた。母の佳子がなくなってからも家族を伴って訪れていた。前年の暑い夏に体調を悪くした加那には今日は遅れた先祖のお墓参りである。目の前の生まれ故郷に広がる大きな基地は「戦」の記憶とともに、恐怖と孤独感をいつでも思い出させる。

「おばあちゃんはこのあたりで助けられたのよ」春子が子供たちに向かって言った。

「ふーん、何で、何で助けられたの」まだ四歳のメイは不思議な顔をして聞いてきた。

「昔、戦争があったでしょう。ここで」

「僕、知ってる、たくさんの人が死んだんだよね」七歳の聖哉が自慢げに言うのを「ねえ、何で」とメイはおばあちゃんの加那に聞いてきた。

また飛行機の爆音がした。空を仰いだ聖哉が「あ、あれ、かっこいい、僕、戦闘機のパイロットになりたい」と大きな声を出した。真っ白な雲を背景に大きな青空を飛んでいく黒く光る戦闘機は機体の後ろから淡い飛行機雲を噴き出していた。

一八七一年明治四年の廃藩置県により全国の藩が廃止され新しく「県」や「府」が日本国において誕生するが、実はその翌年の一八七二年に琉球藩が誕生するのである。廃藩置県の後の「藩」の誕生である。この事が何を意味するのか、当時の中国清朝政府と争っていた琉球列島の帰属問題が絡んでいる。日本国の領土だという既成事実を画策したものであるに違いない。

今から四百年前の一六〇九年に戦国時代の戦乱を生き抜いてきた薩摩藩の侵攻を受け、一五八八年の豊臣秀吉の刀狩令に先立つ事百年ほど前に、既に琉球王朝では若き尚真王のもと刀狩が行われ、中国明朝との貿易により平和な時代が続いていた王朝は、ひとたまりもなく薩摩の侵攻に屈する。その時、首里城を占領されたのも四月五日である。以来、琉球王朝は薩摩藩の植民地として重税に苦しめられることになり、明治維新での薩摩藩の活躍は鎖国を禁じた江戸幕府のもとで、密かに琉球王朝を通して海外との貿易をおこなって得た財力が、その力となった事は歴史的な事実である。

琉球藩の設立わずか七年後の一八七九年、明治十二年の三月二十七日に明治政府より派遣された琉球処分官が警官百六十名、二個の歩兵中隊三百名の武力を背景に琉球王朝の首里正殿に乗り込み、時の琉球藩主、尚泰王に首里城からの退去を命じ四月四日に沖縄県が誕生した。ここに名実ともに琉球王朝は滅びたのである。

その六十六年後の一九四五年四月四日に、上陸した米軍により軍政府が発足し米軍の統治下におかれ、一九五二年のサンフランシスコ条約の実効により、その年の四月一日に琉球政府が誕生した。そして一九七二年五月十五日に、日本国へ復帰し再び沖縄県となったのである。沖縄の宿命はそこへ生まれた人、そこへ住んできた人、そして現在そこへ住んでいる人々の宿命でもある。

先祖の墓の前で孫たちと祈る加那の胸には、穴の中で真栄に強く抱きしめられた腕のぬくもりと「戦」はまだ続いているという思いが交錯していた。

宗吉の死

集中治療室のベッドに横たわっている宗吉は夢を見ている。この年の夏の終わり頃から体調を崩していた宗吉の容態が急変し、入院した一般病室から集中治療室へ移された四月のある日のこと。宗吉が眼をつむってこれまでの自分の人生に思いを巡らせていたところへ突然盛徳が現れたからである。そうだ盛徳。どうしても生きている間に会いたかったのは盛徳、お前なんだ。お前どこにいたんだよと声をかけてみた・・・・・。

「宗吉、何をしてるんだ、そんな苦しい顔をして。なんだ、何かあったのか、びっくりしなくていいよ。そんなに睨みつけなくていいよ。久しぶりなんだから。もうお前も分かってるんだろう・・・・・。え、どうしていたかって、そうだな、ちょっとね、話せば長いんだが。いやあ、お前もよく頑張ったよな。よく頑張った。ほんとによく頑張った。ああ、お前の家族の事はよく知っているよ。孫ができたんだって。奥さんは沖縄から呼び寄せたそうだね。そうそう、健康が一番。二人とも両親に感謝するんだな、そんな健康な体に産んでくれて。ああ、親父さん、お母さん、姉さん、残念だったね。山原(ヤンバル)はなれないと大変だから。ああ、みんな苦労したらしいよ。だって、食べるものが底をついてからは。あの年の五月は雨が多かったし、梅雨が長くて激しかっただろう。山の中で逃げ回らないといけないし、お年寄りにはきついものがあるよね。原因はソテツ、ソテツの実は、ほら、お前も知っているように食べられるんだけど、アク抜きがうまくいかないと腹を壊すだろう。時には命を落とす事もあるんだから。体力が消耗した上に腹を壊したんだから、もたないよね。一緒にいたお姉さんとはぐれてからだね。ほらいろいろと、山の中では味方の兵隊も逃げ回っていたから。でも、もうすべては昔の事。ほら、お前の家族もそこに来ているよ」

規則的に聞こえてくる人工呼吸器の音に混じって、時折人の動く気配がするのを、瞼を通して見える光の動きで感じながら、宗吉はすべてを受け入れようとしていた。何度目かの入院の後にその日がやって来るのを楽しみにさえしていたが、体が痛いのはなんとかならないものかとも思っていた。自分がこの世を去るときに何を思い、何が残るのだろうかと楽しみにしていた。

「お前が助けたあの子の事か。あの後で彼女は母親に巡り合えたんだよ。母親は無事だったんだ。よかったよね。まあ、その後に随分と苦労はしたらしいが命あってのものだね、ウチナンチューはみんな苦労したさ」

「おとうさん、おとうさん」と呼ぶ声が宗吉の耳にかすかに聞こえた。「大丈夫だから静かにしてくれよ。いま盛徳が来て話をしているんだから」宗吉は声にならない声をあげた。

「あ、ほら、反応した。お父さん、痛いのかしら、苦しそうにみえない」と宗吉の長女のマリーが言ったのを、「看護師さん、苦しいんですかね。こんなに肩を上下させて呼吸をしていますよ」宗吉のベッドの横で心拍数と血圧を測る機器を覗いている看護師にむけて、宗吉の二番目の子、長男のスティーブ・宗二が聞いた。

「そうですね、熱がありますし、肩で呼吸するのは体力を使いますから、頑張ってるんですよ。体力的には苦しいと思いますよ」

「こちらの言う事は聞こえているんですかね」

「ええ、聞こえていますよ」

「そうか、聞こえているんだ。お父さん、そんなに頑張らなくてもいいよ。後は大丈夫だから、安心していいよ」

「そんなこと、お前たちの心配なんかしている暇はないんだよ。今、大事なとこだから静かにしてくれよ」宗吉は再びうめいた。

「あ、ほら、聞こえてる。分かったみたいだわ。お父さん、ありがとう。感謝してるは、今までの事。いろいろあったけど、ありがとうございます。おとうさん」

「俺か、お前が米軍の船で沖縄へ来た時に俺は特攻で突っ込んだんだよ。お前の乗っている船に。いや、もちろんその時はお前が乗っているなんて知らなかったけどね、後で知った事さ。いや、参ったよ。故郷が戦火に見舞われるなんて、いてもたってもいられなかったよ。心は焦るばかりで。なんとかしなきゃと思うばかりで、お前もそうだったろう。米軍の兵隊として故郷へ帰って来るなんて・・・。でももう、過去の事さ。ほら、こうしてみんな迎えに来てるから」

「お父さん、ほら、栄吉がきたよ。栄吉の家族も」宗吉の急変を聞きつけて急いでやって来た三男栄吉の姿を見て、マリが宗吉に声をかけた。

「お父さん、お母さん、姉さんも、これでみんな揃ったね。あ、ピート、お前も来てくれたのか。ありがとう。ありがとう。ほんとに久しぶりだね。ほら、見えるだろう。この周りにいるのが僕の家族。あれから、結婚して子供を三人も授かったんだ。横で静かに椅子に座ってる白髪頭のおばあちゃんが僕の妻。沖縄の人でね。よく働いてくれたよ。僕は幸せもんだよ。無事にこうして、何にも心配しなくていいんだから」宗吉は手を動かして父母と姉、そして盛徳とピートに自分の家族を紹介しようと手を動かした。

「あ、手が動いたよ。お父さん痛いの、手が痛いの、こんなに腫れてるからね」宗吉の腕をさすりながらマリーが言った。

「点滴がもう体に回らないんだって。血管から漏れてるんだって、だから腕が腫れてくるんだって」ベッドの傍らに立っている宗二が姉に向かって言った。

「もう、いいのに、そこまでしなくても」マリーは少し涙ぐんでいた。

「お父さん、もういいよ、頑張らなくても、十分、感謝してるから」宗二が宗吉に声をかけた。

「宗吉、覚えているか。エイサーの夜。懐かしいなあ。一緒に大人たちに混じって朝まで遊んだよね。ほら、村の外れのお墓。あのお墓の屋根に寝そべって、一面に輝く空の星を眺めながらいろいろ話をした事」再び盛徳が宗吉に語りかけた。

その日は四月の温かい日和で、病室には光がきらきらと舞っていた。息子の宗二が持ってきたCDプレイヤーから流れる故郷沖縄の民謡が宗吉の耳に届いていた。

「お父さん、民謡を聞いて歌っているのかな。亡くなる前は民謡で送ってあげるよって約束したけど、聞こえているかな」宗二は再び宗吉に向かって声をかけた「お父さん、聞いていますか、聞こえていますか」

「大丈夫さ、聞こえてるよ。若いころの事を思い出しているさ。いい思い出だけを思い出してほしいな」宗吉の三男の栄吉がベッドに横たわる宗吉の顔を覗き込むようにして言った。

宗吉はいつしかベッドにいる自分とその周りにいる家族を眺めていた。

「お父さん、すぐにまた、新しい人生が待ってるさ。きっとどこかでまた会えるよ。安心していいから。何も心配する事はないよ」宗吉の腕をさすりながら今度は宗二がやさしく父に声をかけた。

「宗吉、もう行こう、さあ、俺の手につかまるんだ」盛徳の声を聞いて宗吉はうなずいた。それまで真上を向いていた宗吉の顔が急に横に傾いたのを見たマリーは、「あ、お父さん、お父さん」と声を上げた。

病室の窓の向こうには碧い空に浮かぶ白い雲を真っ赤に染めながら陽が沈もうとしていた。戦後67年経った2011年、四月のある日の事であった。