卒業式と入隊について

池田「沖縄県立第一中学校の卒業式は3月27日で午後八時ごろから行われたそうですが、その日のことは覚えておられますか」

宮城「あの時を思い出すと真っ暗でね、不思議に残っているんだね。家を出る時ね、お月さまがあってね」

池田「宮城さんは当時の自宅が首里ですから、学校までは歩いて行かれたんですか」

宮城「そうだよ。真っ暗な中だったな、何ひとつ明かりがついていない、街灯もついてない、『まちまわい』(街中をうろうろ)して、覚えてる道だから行けたんだね。首里の町が真っ暗ってあったんだな。なにひとつついてない」

池田「ランプの中の卒業式とは聞いていましたが」

宮城「そうだよ。真っ暗な中だったな、何ひとつついてない、街灯もないし、その時は艦砲もなし」

池田「もう、すでに艦砲も始まってますよね、23日からずっと、その夜は激しかったんですか」

宮城「いや、その時は艦砲はなかった」

池田「あ、そうなんですか」

宮城「昼はね艦砲があるんだが、夜はね、彼らも休み、艦砲がないんだね。その時が沖縄の人が避難する時間なんだ」

本島上陸三日前の事である。激しい攻撃を想像していたが、宮城氏は自宅から卒業式の行われる校庭までの道筋をしっかりと覚えていて詳しく語ってくれた。静かな暗闇の中を学校へ急ぐ18歳の宮城さんを思った。校庭で行われた卒業式は米軍の艦砲射撃の目標とならないように、教師の立つ雛段と生徒の列の間にランプがおかれ、そのランプを卒業生が取り囲むように整列し暗闇の中で行われた。真っ暗やみの中であったはずなのに、その光景は65年以上も経った宮城氏の脳裏には、整列した学友の顔や、教師の顔まではっきりと覚えているという

池田「前から卒業式の日程は決まっていたんですか、」

宮城「そうだよ、卒業式があるからと、近所の人からお祝いの言葉をいただいたり、女学生からプレゼントをもらったりしたからね」

池田「女学生からプレゼントを頂いたのですか」

宮城「うん、卒業の前に女学生からサイン帳をもらった。近所の女学校へ通う女子学生から。女子学生の名前が連名で書いてあった。勤皇隊へ入ってもずっと持っていたんだけど、大事にしていたんだけど、どこでなくしたんだろう。今思うとね、心残りだね」

池田「いつごろプレゼントを頂いたのか覚えていますか」

宮城「うんーん、今思い出そうとしているんだがね、俺が入営、招集されて入隊する時ね、三月の二十、何日だったかな」

池田「卒業式の翌日の三月二十八日ですかね、または3月29日ですね、おそらく」

宮城「家を出る時ね、お月さまがあってね。『我を見送る母と月と』いう和歌が・・」

池田「それはお聞きしたいですね」

宮城「そのときは、俺が出るときは暗かったからね。六時か七時ぐらいだよ。その頃は慶良間のほうでね、砲撃があった」

池田「慶良間への米軍の上陸は26日です」

宮城「そのときの歌ではね、月と母と二つに分けて、ほら、先ほど言った近くの女学生たちからもらった、近くの工芸学校の女の子たちがね、俺に対するサインブックをつくってくれたんだ。それをもって入隊した。それに書いてあったんだけどな」

池田「それはすごい。女学生からのプレゼントというのはそのサイン帳ですね。それに書いたんですか」

宮城「(そのサイン帳がどうなったか)わかんないんだよ、それが。そのサイン帳持って入隊したでしょう。勉強ないでしょ。昼は穴掘り。夜は夜で見えないでしょ。どこで、どうしてなくしたのかわからないんだ」

池田「その女の子たちも皆動員されるんですよね」

宮城「持ってきた女学生はね、二、三軒となりの女の子でね。今でも元気だよ」

池田「宮城さんは柔道・剣道どちらも段持ちだったと聞いています。しかも一中生、一中生といえばエリートですもんね。文武両道、もてたんでしょうね。手紙をくれた子なんかもいたんでしょうね」

宮城「あたらずとも」

池田「遠からずですね」

宮城「そのころの中学生、女学生としては、卒業があるとそういう事がね、ひそかなね」

池田「一中生はエリートですからね。聞くところによりますと、町周りといって、首里や那覇の街を一中の制服で闊歩したそうですね」

宮城「うん、女学校の周りをあるいたりしてね、女の子の後をつけて行ってね、その子が家に帰ると、その家を訪ねて行ってね。水を飲ませろとせまるのよ。父親が出てきたら一目散に逃げたりしたんだけどね」

池田「あはは、そうですか。今と変わらないですよね。ところで、卒業式の歌は一中の校歌ではなく、〝海ゆかば〟ですね」

宮城「神宮での学徒動員にならったんだね」

池田「その夜の卒業式には当時の沖縄県知事、島田叡知事も参列されています」

宮城「そう、日本一の卒業式だと訓示があった」

池田「入学されたのが昭和14年ですよね、確か陸士へ行くことが夢だったときいていますが」

宮城「その時は、終わったらね(卒業したら)陸士へ行こうと」

池田「宮城さんのお父様は警察官だったと聞いていますが。やはりあの時代ですから。お父様の影響ですか」

宮城「あの時代はね。富国強兵、国民皆兵。兵隊になり国のために尽くすことが男子としての名誉だったんだ」

池田「そうですね」

宮城「一中五年で優秀な奴は士官学校へ行く。その他に陸軍少年兵というものもあってね、僕はそこへ行こうと思っていたら、親父に反対された。そんなとこへ行くなというんだよね。陸士だったら、卒業したら将校となって刀を下げる事が出来る。それがいつの間にか戦争になって行けなくなった」

池田「卒業前の三月に岩手医専に合格され内地へ行かれる予定だったんですよね」

宮城「そう、これでやまと(日本)にいけるぞと、胸を膨らませたんだ。それが戦争が激しくなって鹿児島へ行けなくなった。命拾いできなくなった」

宮城氏によると3月27日に卒業式が行われる事を知ったのは3月24日だという。実はこの24日に沖縄守備軍32軍は沖縄連隊地区司令部を通じ学徒動員令を発している。一中の近所から通学していた宮城さんは卒業式の日にちをいち早く知ったようである。同じ一中生で鉄血勤皇隊に所属し沖縄戦に参戦した兼城一氏の著書「沖縄一中鉄血勤皇隊の記録」の中で、宮城氏は卒業式以前の二月ごろの事について『1中五年生、四年生、三年生は防衛隊を結成した。沖縄戦が始まれば防衛隊はそのまま鉄血勤皇隊に移行し、藤野憲夫校長をはじめ職員、生徒は篠原保司配属将校の指揮下に入ることになっていた』また、3月の上級学校への合格発表のことについても『上級学校進学の第一次選考結果が発表され、合格者の名前が学校庶務室の掲示板に張り出された。僕は岩手医専に合格した。本土への渡航は困難になっていたが、これでやまとにいけるぞと合格者は胸を膨らませた』と答えている。宮城氏は進学を希望し獣医になりたかったようだ。

その日の一中の卒業式はすぐに終了し、参加した生徒、3年生、4年生、5年生の全員に紙が配布され、その場で氏名、学年、住所、血液型などを記入し提出させている。卒業式に集められたのが鉄血勤皇隊員となる3年生以上という事は翌25日の勤皇隊編制式、そしてその後の部隊配属に集められたのであろうと思われる。

鉄血勤皇隊に関する様々な本によると、勤皇隊は中等学校3年生から5年生までの満15歳から満18歳の男子学生で編成されたとあり、二年生は別組織の学徒通信隊として編成され、前年の昭和19年暮れごろより既に訓練を受けていた。これは学徒通信隊とよぶらしい。実は二年生も参戦している。さて、勤皇隊として招集された生徒は沖縄全校で約1700名あまりで、死亡率は全体で55%を超え、中には死亡率80%以上の中学校もある。招集を免れたのは一年生だけだ。その他、招集年齢に達している生徒でも、病気の生徒、体が弱いと判断された生徒は招集を免れている。田村洋三氏の著書「沖縄一中鉄血勤皇隊」には勤皇隊の招集日に関して次のように書いてある。『3月24日に学徒動員令が沖縄守備隊32軍より発せられたとあり、しかも、その招集令状は通常の、いわゆる「赤紙」と呼ばれるものではなく、小さな紙に「臨時招集を命ず」と活字で印刷され、司令部の大きな朱印が押されただけのものである。招集される人の名前や住所は記載されてない、しかも満15歳に満たない中学生は表向き「志願兵」であり、「勤皇隊入隊申し込み書」に親権者の承諾が必要であった』とある。入隊は親の承諾が必要だったのだ。おそらく、それにもかかわらず皇民化教育に慣らされた、血気盛んな若者が入隊志願を拒否することはなく、反対する父親や母親をふりきって参加した生徒も多くいたであろうと思われる。

前年の1944年三月の「決戦非常事措置要綱」の閣議決定により、全国の中学校以上の学校では全生徒が学徒勤労動員により、軍需工場での労働や食糧増産にかりだされる。そのような状況の中で、軍需工場のない沖縄ではもっぱら沖縄守備隊の陣地構築にかりだされ壕堀の日々を送っていた。同年の七月七日にサイパン島が陥落すると、日本本土の都市への本格的な無差別空襲が行われるようになり、米軍の次の侵攻は硫黄島、台湾、沖縄のいずれかであると予測され本土決戦への準備が行われていた。そのわずか三カ月後の10月10日に南西諸島の奄美、沖縄本島、宮古島、石垣島、その他の島へ米軍による初めての空襲が行われ、沖縄県都那覇市が壊滅した。その後学生達は自宅待機となり、一中生もそのほとんどが自分の出身地の沖縄各地の村へ帰っていた。学校へ通学していたのは一中へ自宅から通える首里市に住む学生か、遠く離島から学生寮に寄宿し通学していた生徒だけであった。

二月の上旬に、沖縄県庁で県下全中学校の生徒代表者会議が開かれ、前月の31日に沖縄県知事第27代として、大阪から赴任して何日も経たない島田叡知事のもと、はじめて鉄血勤皇隊の構想が伝えられたようである。当時の一中の校長である藤野憲夫校長に伴われて出席をした仲地清夫(当時五年生)は前述の田村洋三氏の著書の中で次のように語っている。「島田知事の訓示の中で『鉄血勤皇隊は戦闘部隊ではない』『学生は学生としての本分を尽くすことが第一である』『空襲の際、学校職員とともに消火にあたったり、食糧増産に励んだりすることが、鉄血勤皇隊のおもな任務である』という主旨の事を述べた」と、 おそらく、出席した仲地氏より近郊から学校へ通っていた生徒や、寮に寄宿していて学校へ通っていた生徒たちは、鉄血勤皇隊が結成される事は前もって知っていたのであろうと推測される。

どのようにして卒業式の連絡を行ったのか。前述した3月23日からの激しい空襲が始まり、24日から25日にかけて本格的な上陸空襲のさなか、学校に行けず自宅待機していた生徒たちのもとへ「招集令状」と「勤皇隊入隊申し込み書」とともに、3月27日の卒業式の日に鉄血勤皇隊の結成式が行われると、連絡へ走ったのは同じ学友であった。学校のすぐ近くに住む生徒から遠方の生徒へ順送りにしたのである。訪れた家で久しぶりに会う先輩や、後輩、学友たちは「勤皇隊入隊申込み書」を前にどのような話を交わしたのであろう・・・・。

池田「卒業式へ出るときは鉄血勤皇隊へ入隊することは知っていたんですか」

宮城「うん、知っていた」

池田「お父様は何かお仰っていませんでしたか、本来、学生は兵役免除ですよね、十七、十八歳までは、学徒動員令ができるまでは、何か言っていませんでしたか」

宮城「ああ、その頃はね、みな解除、学徒動員があったでしょ、明治神宮で。あれから(学生の特権は)ないんだから」

池田「鉄血勤皇隊の事お父様にお話をされました」

宮城「国の為に皆行くんだとしか親父も言えない」

さて、27日の卒業式、28日に部隊編制発表に続き、29日には装備が支給される。前述の兼城一氏の著書の中で宮城氏は3月29日入隊の日の様子を『鉄血勤皇隊に入隊した1中生徒はこの日、軍装一式を支給されたほか、戦場専用の褌を一人当たり二本づつわたされた。僕は摩文仁海岸で米軍の捕虜になる日まで、その褌をしめていた』と答えている。軍装については、田村氏の著書には『陸軍二等兵を表す星ひとつのついた真新しい軍服(上衣、下衣、袴下、襦袢)、戦闘帽、鉄帽、軍靴、帯剣、帯革、飯盒、雑嚢、毛布二枚、戦場専用の褌二本、兵器では小銃一丁、小銃弾15発、手榴弾二発』とある。