入隊後について
池田「沖縄戦の始まる当時はお母さんとお父さんと真一さんの三人だったんですか」
宮城「家にいたのは三人だった。弟のTは姉の元へ疎開していた。姉が嫁いでいましたから」
池田「どちらの方へ」
宮城「宮崎。いや、豊橋まで行ったかな。姉がね、その姉の旦那がね、陸軍主計、満州から豊橋に転勤になった。それを追って、Tは一年年下だからね。あの同じ同級生のなかで。それで体が小さかったもんだから。一中で一番小さかったんじゃないかな。疎開して行ったもんだから、残ったのは俺。そして親父の友達で醤油屋、醤油作っている家があった、その人がね。疎開すると、疎開したら命は助かる。疎開しないと死ぬと。ところが財力がない。親父は市役所にいましたから公務員だから、行かないという。友達がそこの長男が体力的には使い物にならない親父を預からせてくれと、自分の小遣いにでもしようと思ったんでしょう。ところがお父さん、『俺は行かないよ』と、親父がいかないのなら俺もいかない(疎開しない) どうして、俺は親がおるのに行かない。お父さん胃潰瘍で病気がちだし、事実、夜中に人力車乗せて病院連れて行ったこともある。闘病している親父ですから。そういうことで疎開には行かなかった」
池田「鉄血勤皇隊への入隊後、ただちに配属先へいかれるのですが、宮城さんは第五砲兵司令部へ配属されることになるんですよね」
宮城「配属先へ行くとね。『おい、宮城こっちへこい』といわれてね。いくと、さんざんに殴られたんだ。軍靴でもね。なぜだかわかるか」
池田「どうしてなんですか」
宮城「俺が一番年長者だから。年長者をね。見せしめなんだ」
学友10名とともに和田幸助中将率いる第五砲兵司令部へ配属された勤皇隊は五名ずつの二つの班へ分けられた。宮城氏は学友5名とともに司令部付となり、後の五名は炊事班である。
池田「沖縄戦の最中には全国各地からの兵隊さんたちと一緒に戦われたと思います。内地から来たその兵隊さんたちが、故郷を思い出して歌を歌ったりとか、何かそのような思い出はありませんでしょうか」
宮城「あのね、比嘉君だったかな。首里で負傷した鉄血勤皇隊の仲間がいた。それを南風原の陸軍病院へ搬送した。姫ゆり部隊のね。そこに入って手術終わって、もう時間遅いから泊まって行けという事になって、空きベッドに割り当てられて泊まった。俺の泊まった所にね、二段になっていて、俺の泊まったベッドの上のほうには中尉、足元のほうには上等兵か軍曹かしらないけれど、ベッドの上の人よりはした。階級が上の人が上のベッドに下の人は下へ寝るからね。その夜中だったよ。「中尉殿、桜は散りましたかね」、XXXXの出身なんだね。それがね俺達は知らない、ここへ(本土)来て初めて桜が散るという事を知った。あの人の表現があたってるんだね。沖縄の桜は散らないからね。そこでおふくろと別れてきたとか、どうだこうだという思い出話を話していた。中尉殿は「うん、そういったらなぁ」とかなんとかいろいろしゃべっている。翌日そのしゃべったやつ死んじゃった。壕の入り口に大きな穴が掘ってあって。見たのは俺たちの帰る時刻、朝早く帰るからね。まあ、そういうことがあった」
連日の戦闘で戦死者があまりにも増えるので亡くなった人一人一人の墓穴を掘っている余裕はなかった。壕の前には敵の爆弾により大きな穴が開いていてそこに死体を投げ入れていた。
池田「宮城さんのお父様は沖縄戦で亡くなられたとお聞きしていますが、お父様が亡くなったことを知ったのはいつですか」
宮城「六月十四日」
池田「まだ戦いの最中の」
宮城「摩文仁で」
池田「あの戦争中にお父様にお会いしました、摩文仁で」
宮城「いや、首里で」
池田「首里で」
宮城「鉄血勤皇隊に動員されてから一回、支給のね、缶詰をもっていった。親父に食わせてやろうと思って家に」
池田「そうですか」
宮城「親父ね、飯食えなかったのよ。それで、持っていった。(親父に会ったのは)それが最後だ」
体調を悪くされていた宮城氏のお父上も首里から摩文仁まで、多くの避難する住民とともに米軍の砲弾にさらされながら逃げて来て、そしてその摩文仁で亡くなった。私はこれ以上質問をする気にならず、宮城氏自身の撤退の様子に話題を変えた。
池田「首里から摩文仁へ撤退する途中でなにか覚えていらっしゃることは」
宮城「まだ摩文仁へ着く前の事なんだが、伝令に、俺はまた嫌がられてね、よく働くかわりにたくさん食うんだ、すごく嫌われているわけではないけど、飯時間になると「おい、お前伝令行って来い」とよく伝令にやらされた。あるときは鶏を捕まえて調理して、もうそろそろ食べられるなと思ったら、「おい宮城、これをむこうにもってゆけ・・・」と。そういう事ばかりされていたんですよ。その日も夕方から出かけていて帰ってきたら、もうみんな寝てる。古い家があったんですよ。居間があってねそこには偉い人たちが寝てる。だって、豪に入る前のことですからね。台所のほうへ行ったらみんな寝てる。火をたくところ(カマド)があって、その前あいてますよね。そこももう全員寝てる。寝るとこがない。仕方なく回ったら家屋の中で誰も行かないところだな、蜘蛛の巣が張ってあるようなとこ、そこがちょっと空いていてそこで寝た。翌朝ダーンと、弾で飛び起きた。至近弾、直撃弾というのかな。僕はその窯の間で寝ていたから大丈夫だった。周りを見たらみんな寝てる。「おい!」と声をかけたら寝てるんではなく死んでいる。その第一発目でほとんどが死んじゃったの。俺は「ああ、来たな」と思って雑嚢から銃から何から持って山のほうへ逃げた。逃げる途中で馬小屋だったと思うがね、そこに松の葉っぱ、摩文仁の人は松葉を燃料代わりにしていたんだね。そこは松葉がフワフワして寝るのにいいんだ。そこに俺たちの下士官が寝ていた。そこの上で古兵殿は寝ていた。その人たちも起きて、兵隊さん達だから巻脚絆はいている。俺は兵隊ではないんだから、訓練はそこまでいってないんだから、それで荷物担いで一目散に逃げて、途中でその人たちをちらちら見ながら、兵隊はそうするんだなと、おれも可能性のあるところへ行ったら巻脚絆しようと。第二弾、第三弾が落ちてきた。そしたら、巻脚絆していた兵隊たちが全部やられた、全部負傷。そのとき死んだのは全員だったかな。朝の第一発目はたくさん死んだ。俺はそのまま予定されていた壕へ向かったわけよ。それからが大変。うちの部隊は全員負傷。鉄血勤皇隊は動きが速いから怪我なし。水くみ飯上げ毎日その仕事。摩文仁の中腹にあれがあるんですよ。そこにみんな横たわって俺達に水、水と言って、俺たちは水汲んでくるわけ、昼はなにもやることがないから、流行歌、歌って、「酒は涙か溜息か」「恋しい銀座とか」(東京行進曲)そのときにその人たちが歌っていた」
池田「宮城さんはその歌を知っていたんですか」
宮城「いや、そこで覚えた。今でも歌える。昼は何もやることないんだから。それから握りずし、意味が分からない、沖縄では食ったことないからね。質問もやらなかったな、怖いから、何かというとぶんなぐる」
池田「命令だけしてくるんですね」
宮城「だからね、今思うとこの人たちの出身地ぐらい聞いておけばよかったなと。ここでこういう風にして死にましたよと。でもその情愛というのが湧かない、なぜかといえば敵が上陸してから編成されたわけだから、情愛は全然ない。だから向こうも水汲みの道具だと思っていたんでしょう。そういう、ヤマトンチュとウチナーンチュの、(少し涙ぐむ)なんかあるとすぐにお前日本人か、そんなこと言う。だいたい服装からして同じなのに兵隊なのに、日本の国を守りに来ているのに、どうしてそんなことを言うんだろう。お前たちが悪いんだ。お前たちは日本人じゃない。とそういう言葉で優越感を持っている」
池田「わかります」
宮城「それと同時にね、中学行ったでしょう。そのうち将来は兵隊入ったら俺たちの上官になると、今のうちに痛めつけておけとね。そういう魂胆がね、あいつらあったんだね」
池田「ありますよね、それは」
宮城「中学行ってたから、学問してたから。(この時の宮城さんは語気が荒くなっていました) あ~、ヤマトンチュウとウチナーンチュが感じてること、分かり合ってほしいなぁ」(溜息)
池田「一緒に摩文仁へ撤退した学友についてはいかがですか」
宮城「ある日の夕方になって水汲んで来いと水筒渡された。水筒もってそのとき俺たち同級生がね。五人いるといったでしょう。俺がいてS、こいつとはよく飯上げに行った。二人で行ったんだ。そしてあと・・・・。逃げるやつがいた。俺たちに何も告げないで」
池田「しょうがないですよね、逃げるのは。その逃げた人は生きているんですか」
宮城「生きているよ。それで一人生きて。三人死んだんだな、五人のうち、三人死んだんだな」
池田「そのSさんも亡くなったんですか」
宮城「そう、そう、あれは伝令に出て行く時、命令受けて、そしたら、自分から飛び出た。なんとかいったな、あっちのほうといったかな、あまり元気もんじゃなかったんだけどね、一番最後のほうは元気でて、俺よりも。だいたい俺が一番先に出るんだけどね、俺よりも先に出た、そしたら案の定弾に目をやられて、俺と二人だから。馬鹿だなあ俺も、そのまま引き返せばいいものを、引き返さないでそのまま伝令に先に行ってきた。その間Sは目が見えなくなっているから、邪魔だから。起こして、一緒に杖ついて。待っとれよと。待たしといて俺は行ってきた。そのとき彼は右目やられているから動けないでじっと俺を待っていた。「シンイチ、おそいなあ」と言って。そしてじゃ陸軍病院連れて行ってやるからと。俺たち部隊の上のほうに、二階に、二階じゃない、山の上のほうに、野戦病院という、野戦病院といったって兵隊がただごろごろ寝ているだけ。薬があるわけでもなし、消毒するわけでもなし、みんなごろごろ寝てるだけ。そこへ連れて行って。そしたら彼自身はそこから逃げたらしいね。誰か途中で会ったといってたから。俺は杖ついてまた最初のとこへ報告行った。俺たちの部隊は全員負傷したんで、毎日朝起きちゃあ水、昼も水、夜も水、飯はないか、ありません。飯とって来い、何でもいいから口にするものもってこい。何にもない。水だけ汲んできて。朝、たまには昼もいったね。昼のね、朝が普通は一番やりいいというのかな、空気がきれいだし。水瓶というのかな、水を蓄えている井戸のほう、水槽というのかな、水がきれいなんだ、朝は。水筒五、六個、六、七個、水入れて今度はゆっくり、兵隊が上から来てるから、つぶされないようにして、水筒蓋を、口栓閉めて、前にもいるし、もう、人間集まって来てるからね。相手を見て、平地だからね、アメリカ軍が海軍が軍艦が来ても見えないんだ。そこを登っていくと。今度はアメリカ軍に」
池田「見つかるわけですね上って行ったとこだと」
宮城「山の斜面があるでしょう。その斜面を登っていくからね。すごい遅い、弾の落ち具合を見てね。隠れたりして、そんな簡単なものじゃない」
池田「簡単に上れるとこじゃないんですね」
宮城「こういって、こういって、ここに隠れて、様子を見て」
池田「ジグザグに行くんですね」
宮城「その時の水筒の重たいこと。そこからまた時間かけて、ゆっくり行って、早く行ったら、また水汲んで来いと言われるから、さぼって、自分の分とみんな均等にして持って帰る。そしたら、遅かったなあと。だけど負傷してからは水だけになってからは向こうも体力がなくなったのか、お世話になってると思ったのかぶん殴られることはなかったけどね。そのかわり飯とって来いと言われるのは辛かったな」
池田「食べるもん」
宮城「食べるもんないんだから」
池田「ないんでしょう。飯とって来いと言われても、どうしたんですか」
宮城「それで一応、軍隊、軍隊に飯はつくられている。Oなんかが、あいつは炊事班にいたんだ。あいつら五人は、あいつらが焚いてあるんだけど取りに行く人がいないから、取りにdd行くのが、こう山の斜面を下りていくからね」
池田「見つかるんだ」
宮城「怖くて降りていけない。俺たちはわりと近かったから行った、それにわりと地形知っていたから。どこに大きい岩がある。どこに何がある。どこまで行けばいい、そこまで行けばいいと。まあ、摩文仁で死んだのはそういう具合にして死んだ」
池田「そのほか摩文仁でのことで覚えていらっしゃることは」
宮城「ある日、俺、缶詰ふたつ持っていた。軍の配給の缶詰、三号缶というのかな、それ二つ持って。なんでか知らないが雨の中を部落のほうへ歩いて行った。するとみんなね、床板をとってね、床板の下のほうにゴザしいてそこの上にみんな、ここから上見えているんだよ。下のほうは床のした。いっぱい人がいた部落の人なのか見ず知らずの人なのかわからないが、みんな座っていた。僕に問いかけてくる。兄さん何か食べるものないと、みたら、二十、三十近くのおねえさんと、それぐらいの旦那さんが二人一番端っこのほうに体半分見せて俺に声かけてきた。何か食べるものないかって。それで缶詰だしてふたつやった。旦那さんと奥さんに。ありがとうありがとうと言ってね。それで俺は食べるものないから山のほうへ俺たちの壕のほうへ帰った。二、三日していったらそこはもうなかったけどね。その人たちが生きているのか死んでいるのか、とうとう永久にわからずじまいだね、心残りというのはそのお姉さんたち夫婦と戦争で抱いた坊やと心残りだね。それで俺の心の中にね、くすぶって、気が晴れない原因はそこにあるんじゃないかな。とても鮮明に映るときというのは。みなそうだったんじゃないかというような気持ちの時とね、あるんだけど、このふたりの、二つの映像というんか、それはわりと俺の心を落ち着かせるね。それ見るとねあの人たちどうしたんだろうかな、俺が手を合わせないといけないな、誰も知らない。知ってるのは俺だ。俺は坊主じゃないけどさ、そういう気持ちになるのね。そうすると心も落ち着くというか。南無阿弥陀仏でも何でもいいさ、ただ手を合わせて。成仏してくれというんじゃない。戦争で死んだ人が成仏するとは言わないね。なんというんだろうね、そういうあれではないんだよ。ただ供養してやらなくちゃといけないというそこまでだ。供養してあげなくちゃいけないな、誰も供養する人いないから」
池田「あの摩文仁では小さな子供たちをたくさん見かけたのですか」
宮城「小さい子供って。相当小さい子供たちはよく見かけたけどね。抱っこしてるのを。自分で歩くのは少なかった。脚力がないから捨てられるかなにかしたのかな。少なかったみたい。戦争ね、傷の中にそういう埋もれた瘡蓋みたいな。取れないんだな」
前述の兼城一氏の著書「鉄血勤皇隊の記録」では宮城氏は首里から摩文仁へ撤退する際の、次のようなエピソードも語っておられる。『しばらく行くと、全身朱に染まった母親らしい女性が、赤ちゃんと並んで道端に横たわっていた。傍らをとおると顔をこちらに向けて何か訴えた。われわれは顔をそむけて、逃げるようにそこを通り過ぎた・・・・。』
池田「壕を脱出したのは一人で脱出したんですか」
宮城「二人でOと二人で。そのときⅠというのは、久米島の出身なんだけど、戦後死んじゃった。柔道強かったんだよ、そいつが俺に
『シンイチもう戦終わったからOを連れて下のほうで待っとけ』
『終わったってどういう意味だ、勝ったのか』
『ばかやろう、勝つはずないだろう』
『連合艦隊いつくるのか』
『お前夢見てるのか』
みんな知ってるんだけど、俺だけ知らない。
『戦終わったの』
『終わったんだよ』
『そうかじゃあ、O行こう』
Oが負傷してたから、胸のほうに傷があったからね。歩くのは別に歩けたからね、ゆっくり、ゆっくりそいつを連れて下まで降りた。Ⅰはまた他の奴らに連絡しに行って、戦終わったから帰ろうという事で」
池田「それは一中生の学友に連絡しに行ったんですね。そこに仲間がいたんですね」
宮城「Oと二人下で待っていた。脱出はそういうことでね」
池田「それとですね、あの、宮城真一さんは6月26日頃に投降というか、囚われたと思うんですが」
宮城「うん」
池田「しかし沖縄戦終結の日と言われている6月23日の牛島中将や長参謀長の自決は戦っている一般の兵隊たちは知らないですよね。伝わっていたのでしょうか」
宮城「解散と聞いた。しかし、解散とはどういうことか理解できなかった。沖縄の部隊が解散したと。解散という意味が自分にはわからなかった。自分勝手にしろということか、兵隊をなくせと言っているんではない。戦争は続くんだから。沖縄の軍が解散であって、なくなっても日本は残っているのだから。戦っているんだから。法律的には正式な兵隊でない自分には理解できなかった」
池田「そりゃあそうです」
宮城「だから、ヤンバルまで落ちのびて行って、後方撹乱というか、まだ戦うんだと。五年生である自分は中心になって。おこがましくもそう思った」
池田「そんな、おこがましいなんて。グアムの横井さんや、ミンダナオ島の小野田さんなども、解散と聞いてもまだ戦争は続いているんだと思っているのですよね」
宮城「そう、まだ日本の国はあるんだから。続いているんだから、国が解散ということではない.沖縄の部隊が解散だと」
池田「8月15日の終戦の日は覚えていらっしゃいますか」
宮城「8月14日の晩、明日15日という日ね、屋比久の収容所にいたんだよ。勤労年齢の人達が収容されていた。40歳以上の人たちかなぁ。兵隊に行かなかった人たちの収容所があった。そこでの事、今夜はおかしいぞ、寝る前9時ごろ、ヤンバルへ向かって米軍がいっせいに空へ向かってライフルを打ち出したんだ、ひょっとしたら、軍艦大和を先頭にいよいよ来たんだ、俺たちも考えないといかん。撃ち出して一時間ほどで止んでしまった。おかしいなと思ったら、翌朝、リーダーが日本降伏したといった。今日12時に天皇陛下のお言葉があると。内地ではラジオの前で皆さん集まって聞いただろうけど、米軍は集めて聞かせてやろうというわけでもなし、ラジオがあるわけでもないからね。放送は聞いていない。
それと俺は原爆のあった日ね、あったというか。与那原に作業へ行っていた時にね、ちょっと英語が喋れるからといってね、外人が僕を犬頃みたいに連れ出して(笑)海岸を散歩した。砂浜の見えるとこだったなぁ。どこだったかなぁ、どこかで腰かけてね。そしたらニュークリアーと言って写真を見せられた。何のことかさっぱりわからない。俺はねサインしてくれと言ってサインしてもらった。そのサインがあったはずなんだがね。(収容所の)テントの下コールタールを敷いてその上に油紙があった。雨漏りがしないようにね。沢山あったのでそれを綴じて手帳にしてあった。そこにサインをもらったんだが、その手帳どこへ行ったんだか。原爆の話を聞いていたんだね」
池田「ニュークリアーですもんね。お聞きになっていたんですね」
後日調べてみると長崎へ原爆ファットマンを落としたB29ボックスカーは投下後に燃料不足のため沖縄の読谷飛行場へ緊急着陸している。
池田「ところで一中の先輩たちのなかで、ひょっとしたら米軍の二世兵として、通訳として来た人がいるのではないかと気になっているんですが」
宮城「いるよ」
池田「います。あの戦争のさなかに米軍の兵隊として沖縄に来たという人たちが」
宮城「いるいる」
池田「いるんですか、それなんですよ、その方たちとの邂逅というか、巡り合い」
宮城「ハワイまで行くんだなー、名前までは覚えてないけど。いるよ」
池田「いるんですか」
宮城「そう、一中の先輩でね」
池田「やっぱりいるんだ」
宮城「おれがね中学でてから、一中でてから、戦争終わった時から、エリートなんだよ」
池田「そうですよね、一中生はエリートですよね」
宮城「軍政府に、軍の政府に衛生関係の仕事を押し付けられた。そして、住民からいろんなお願いことが来るんだよ、水がどうとか、排水がどうのこうのとか」
池田「当時の住民はもちろんウチナーグチ(沖縄方言)ですもんね」
宮城「そうそう、いや、ヤマトグチする人もいたさ」
池田「ふーん」
宮城「ところがね一中生だったら、なんでもできるさ」
池田「そうですね。一中生ですもんね」
宮城「だがこちら一年で終了するわけ。中学二年で英語は廃止だから」
池田「中学二年で廃止ですか」
宮城「でもね、英語の辞書あったら、辞典引くことぐらいできる」
池田「うん、そうですね」
宮城「そういう部署について、住民の願いを聞いて、それで」
池田「で、アメリカ軍の人にいうんですよね。民政官に」
宮城「上に。俺が出した奴が、前回、けっちんくっちゃった」
池田「(笑い)どうしてですか」
宮城「癪にさわって、アメリカターが(アメリカ兵め)何がわかるって、敵愾心持っているからね。(書類を)俺に渡せといって、ざーと見てね、行ったんだ、アメリカーに抗議しに。英語は自分は知らんから、アメリカはまだ敵国だと思っているから。そしたらね。居たんだね二世みたいな兵隊が。英語で話しかけていいのか、日本語で話しかけていいのか」
池田「はい」
宮城「そしたら向こう動かないんだ」
池田「はい」
宮城「あくまで俺が話すのを待ってるんだ」
池田「はい」(笑い)
宮城「負けてなるもんかとね、エイ、ウン書類トオランチニー、ウンチャーアミ(おい、この書類が通らないって、そんな事があるか)方言で言ったんだ」
池田「はい」
宮城「その、感情が入ってるからね、ウチナーグチで言ったんだ」
池田「はい」
宮城「そしたら向こうがね、『どちらが間違ってるんですか』って、ここだよって(米軍の方)。(その二世兵が)『あんた沖縄一中だったの』(と聞くから)、一中ヌーガーヤ(一中ががどうした)って(言うとね)、それがね、俺たちの三期先輩」
池田「そうですか」
宮城「英語べらべら、」
池田「はい、いやあ、ありがとうございます」
宮城「そしてね、早く俺と話したい。チャンスをつくる為に、そういうイタズラしたんだ。最初、自分を知ってると思ったらしいんだ」
池田「なるほど」
宮城「(俺が)一中だとはっきり分かったら、君たちの三期先輩だよと言おうと思っていたらしいんだ。それから仲好くなってね。で、また話は違うんだけど、土曜、日曜日、脱走してくるんだよ」
池田「はははは、会いに来るんですね。宮城さんに」
宮城「そうそう、シンイチ、車、運転せ、ジープ持ってきて、那覇の街に遊びに行く。行こうかと。アメリカ軍が、アメリカの人間が行ってはいけないとこがだいぶんあったんだよ。そういうところにいくわけ、英語全然使わない。聞くだけ。アビラランサニ、ワッターヤ(僕たちは分かりません)って言ってね。アイデアだね、そういう先輩、ハワイ」
池田「アイデア。ハワイ帰り」
宮城「そういう先輩がいたね。もう遅いだろうな、俺が80だから、90・・・になってるだろうな」
池田「そうですね、ハワイの有名なのは二世部隊ですけど、沖縄の人多いですよね、ほとんどが沖縄の人ですもんね。やっぱり一中の先輩、卒業してハワイに行った人で、そのまま米軍の兵隊となって故郷沖縄に帰って来た人はいたんですね。いたんですね」
宮城「いたんですね、じゃないよ、随分いたよ」
池田「随分いたんですか」
宮城「新聞にはときどきその人たちの談話が」
池田「ええ、たくさんいるんですが、一中の人というのは」
宮城「あ、一中からね」
池田「そうです、一中の人というのは。もちろん五千人ぐらい、あのう、二世兵が沖縄に来てるんですから」
宮城「一中からはね、そんなにいないんじゃ」
池田「はい、宮城さんの三年先輩と仰っしゃったじゃないですか」
宮城「そうそう」
池田「という事は、宮城さんが中学校入ったときには、まだ学校にいらっしゃるわけですよね4年生か五年生、で卒業されて」
宮城「うん、うん」
池田「宮城さんが入られたのは昭和14年ですから、15年ぐらいには。ハワイへの定期船は昭和16年ぐらいまでありますから、ですから15年ぐらいにはその定期船に乗って、向こうへ行かれて、それで招集されて兵隊になって、故郷に帰って来たという人がいたということですよね」
宮城「広島の人もいてね、二世言葉で話すんだ(笑い)」
池田「広島弁ですね」
宮城「その人はカタカナで書いたらようやく読めるんだ。あっち、こっち、どこへでも行ってね、レポート取ってね、お願して。それを俺のとこ持ってきてね。俺がそれを(カタカナに」直してやった。ところが、俺が書いた日本語ケッチンくらっちゃった。俺の書いた日本語だよ(笑い)。そのアメリカ二世兵に全然通用しない(笑い)」
池田「あはははは」
宮城「まあ、俺の威張った話し、初めてするけどね」
池田「ですから随分、また、その先輩に巡り合ったというのも、また、先輩はたぶん一中生だろうなと思って、先ほどの話ですけども、宮城さんの書かれたものを無理にかえした。きっかけを、話すきっかけをつかむために」
宮城「そう、(一中生が)おるだろうと思ってね」
池田「そしてウチナーグチで話すとわかるわけですよね。相手がね。素晴らしい」
宮城「あのね、宮古知事だった具志堅某って知ってる」
池田「いえ、知りません」
宮城「沖縄に群島政府というものがあったでしょう。その時の、あれが宮古知事だった人がね」
池田「あ、わかりました。戦争終わった後ですね。宮古知事、八重山知事、群島政府の」
宮城「その宮古島の知事だった具志堅某がね。(戦争前は)警察署長だった。僕らの一中に来てね、『敵兵が来たら、自分が負傷したら、まず右手やられたら左手で、左手やられたら右手で、両方使えなくなったらキンタマ噛んでやれ』って、そんな事を俺に教えておいてね。戦争終わってから、屋嘉比の捕虜収容所でね、取り調べがあった。そしたら、その人が(取調官で)座ってるんだ」
池田「あはははは」
宮城「そんなはずはないだろうと思ったがね。その人は俺の親父を覚えてるんだ」
池田「お父さんは警察官ですからね」
宮城「なんとかその人に当たらないようにね、列を変えたりしてね。逃げようとしたんだけどね、見つかっちゃった。一中でねバケツリレーとか、教練のときに見てるからね。俺たちの事を。親父を知ってるとは俺は知らなかったんだよ。『お前名前は』と聞くから『ミヤギシンイチです』『ミヤギとはどこの人間だ。ウチナーンチュはミヤグスクだろう。ミヤギはヤマトか、だったらヤマトに帰すぞ』と脅かされてね。それで『ミヤグスク』ですと。それから(日本兵と沖縄住民とに)分けられて百名(ヒャクナ)の収容所に連れて行かれた」
具志堅某氏はその後沖縄経済界で成功し、いまでは誰もが知っている沖縄の地ビールの創設者としてご高名のかたである。