投降記 作/宮城真一
最後に宮城氏自身の投降記を掲載いたします。
沖縄戦も終わりになり日本軍は敗けてちりぢりになった。軍服を民間服に着替えての放浪が始まった。食うものがなくて北部への突破も米軍の銃砲の前には不可能と思い、去就を決めかねていた。「解散」と言われて何日たっただろうか。港川まで行き、ピアノ線にはばまれ、摩文仁海岸を行ったり来たりしている内に、ここ島尻のボージャバンタにたどりついた。摩文仁海岸の険しい岩山の一角で、平和時は農耕馬も歩いたであろう処である。夕闇の中に息絶えた母親とまだかすかに鳴き声を上げている赤子に遭遇したのもこのあたりだ。赤子を抱き上げたものの、どうすることもできずその場を離れるしかなかった。大きな岩が割れて地面との間にわずかに空間があり、奥に行くにしたがって岩の天井が低くなっているところを見つけた。隠れるところも無く、真っ暗なところに入って行ったら人の気配がした。「ここに寝かしてください」と言って服のまま横になった。遠くで銃声がする。どのくらい寝たのか、夜が明けかけて外は明るくなっている。
「兵隊さん、自決は駄目だよ」と、黒い着物の老夫婦が手を合わせている。起き上がって「死なないよ(死ナンササイ)」と方言で言って、枕にしていた手榴弾に手をだそうとしたら、いつの間に来たのか十名余の米兵が銃を構えている。わずか三人に対してこんなに大勢とは。無意識に手が上がった。僕の後ろでおじいさんが何か言っている。恐怖の絶頂でもうなにも聞こえぬ。大勢の米兵に囲まれたらもう何もできない。いつ弾が来るか。
米兵が近づいてくる。「僕の最後ももうすぐだ」銃口は俺に向いている。自然に手を頭の上の方にのばして、降伏の形になった。今その時を思い出してみると、「夢中で手を挙げて立っていた」としか表現できない。囲まれることはそれだけ怖いものだ。近づいて来た米兵を見もしないで立っていると、米兵は僕の服のポケットをたたいて手を入れ、中から、大事にしていた父の形見の万年筆をだし、ペン先を確認している。僕は、意思なく体だけが動いているようだ。米兵は「ヘイ何とか・・・」といったようだが意味は分からない。下の方の浜で銃声がしたように覚えている。米兵はあまり銃を撃たずに日本兵を捕まえたかったようだ。
米兵に囲まれて浜の方向へ移動した。僕についていた兵が、タバコを僕に突き出した。「僕を銃殺するんだ」と急に思いついたから、この世の別れにとひとり合点し、一本ぬきとった。しかし米兵はマッチでタバコに火をつけてくれて、手まねで「岩から日本兵を呼び出せ」と言っているようだった。日本兵の隠れている岩の上に乗り移り、「出て来い!」と叫んだ。米兵は満足そうで、僕の手を握り移動しようとした途端、前の岩と岩の間を日章旗を銃に結んだ鉄かぶとの日本兵が二人駆け抜けた。と、口笛がピーとあちこちで聞こえる。後しばらくして、米兵が集まってきた。日本兵の動きがないようなので、投降したものが集められている所に連れて行かれた。陽は燦々と照り良いお天気の日だった。そこは農地を見渡せるところで、すでに日本兵が二十人ぐらい集められ、周りの山の掃討戦を見ていた。時々日本兵を追いつめ「パラパラ」と四・五発撃つ。「兵隊さんガンバレ」と心に念じて次の銃声がするまで皆押し黙って立っている。真っ裸の塀もいる。前線にまかれた米軍の宣伝ビラに書いてあった通り、真っ裸で武器を待たない証拠を見せて投降の印をつけてくる兵士達である。どうやら僕はこの組の指揮者に預けられていたらしい。「銃があれば米兵一人打ち取れたのに」と戦後長い間思っていた。
丘の上に敵味方入り混じって無言で立っている。僕も黙っていたが、戦争はもういいじゃないか、と一瞬ひらめいて「ギブミーウォーター」と言った。すると、米兵がドッと僕の周りに集まり、「もう一度言ったら水をやる」とでも言っているのか、僕一人に大勢で話しかけてきた。
僕の英語力は中学二年で終わっている。敵国語を学ぶ暇に戦争の準備をしろと、英語は廃止になった。それから数えて数年間英語をしゃべっていないのに、口が覚えていたらしい。それからも僕は、日本軍の要望を米兵に行ってくれと、パンツが欲しい、お菓子をもらってくれなど、通訳?にさせられ、英文宣伝ビラをよまされ、また、英語はギブミーしか知らぬ俺に何か頼んでいるような言葉で話させ、俺は俺で手まねで返事にならぬ返事をしていた。
あたりが明るくなっている。昨日までの敵の弾の音がひとつも聞こえない。静かな朝だ。そこは具志頭の集落の農家の豚小屋の中だった。沖縄古来の石造りの豚小屋だが、戦争中は使っていないのできれいな石畳の小屋だ。従妹のHちゃんとその友達の女性、それと僕の三人で、月夜の前夜、どうしたらよいか迷った昨日の事などを憑かれたように語りあった。従妹ではあるが年頃の中学生と女学生とは語ることとてなく、道であっても知らんふりするのが当時しきたりだったのだが、その時は違った。
そのHちゃんが、米軍の日系二世の調べを「民間服を着ているのだし学生だ」という事で潜り抜け釈放されて出てきたところを、「シンチャン兄さん!」と呼びかけてきたのである。本当にびっくりした。それからこの屋敷の石の間で、寝付くまでしゃべり続けたのだ。
Hちゃんたちは壕の中でこれが最後と渡された青酸カリを飲み、人事不詳のところを米軍病院に収容され、一日半の後意識をとりもどし、数時間手当を受け、あの門の近くで釈放されたらしい。三人の持ち物といえば、俺のハンゴー一個だけ。三人とも何日か食べていないので、男の僕が食料探しに出かけた。
過去について沈黙したのは、軍隊での辛い生活を忘れたかったからかもしれない。戦死した同世代に申し訳ないという思いもあったのだろうか。だが、軍隊にいたことすら悪とするような戦後の風潮の中で語るに語れなかったのも事実だろう。
戦争に行って初めて独りという事がわかった。かばってくれる人はいない。俺は独りだ。助けてくれる人はいない。かばってくれるどころか一年生をかばわなくてはならぬことになった。五年生は古兵と呼ばれた。古兵は下級生を常にかばわねばと心していた。そんな俺が独りで兵隊(兵士)の中に投げ込まれた。
健児隊最初にぶん殴られたのはこの俺だ。それから考えた。我慢だ我慢だ。国のためなどくそくらえ。なにが国の為だ。国の為との気持ちなど兵隊には通じない。
なんで殴られたのかわけがわからぬ。訳が分からぬままであるが、あいつを散兵戦上、後ろから弾一発頭にぶち込む気持ちは充分心に植え付けた。どうせ死ぬ身だもの、あの上等兵だけは殺して散りたい。それにはすべて我慢だ。すべて我慢だ。俺の人生、我慢の初めの話だ。
終わり