1945年

1945年、沖縄では春が終わりうりずん(琉球語で初夏)の頃の3月26日、慶良間諸島への米軍の上陸により日本国沖縄県の地上戦は始まった。日本国内で初めての戦であり、太平洋の島々での日米双方の肉弾戦の最後の戦いでもある。その三日前、3月23日より米英、オーストラリアの、沖縄本島を取り囲んだ艦船1000隻以上に余る上陸のための砲撃とともに、上陸を支援する戦闘機や爆撃機による本格的な空爆も始まった。その初日だけで延べ355機、以後米軍上陸までの4月1日までに、延べ2000機以上の激しい爆撃の始まりである。

1945年三月当時、米軍上陸直前の沖縄本島には44~5万人の民間人と、日本帝国陸軍第32軍を主力とした11万人を超える日本兵がいた。そこへ54万8千人の米国・英国・オーストラリア・カナダからなる連合軍が攻撃をしてきた。その上陸部隊の中心は米軍であり、連合軍の作戦名はオペレーション・アイスバーグ。第二次世界大戦で最も上陸部隊の多い戦いで、ヨーロッパ戦線のノルマンディー上陸作戦より兵力が多いのは驚きである。南北に100キロ、東西でもっとも広いところで30キロほどの小さな島である沖縄本島。戦いで亡くなった沖縄の住民と本土からの日本兵の数は18万人ほどと言われているが、その数は今も判然としないうえに、傷ついた人数も今だにはっきりとしない。住民の4人に一人が亡くなった「戦」と言われるゆえんであり、すべての住民を巻き込んだ戦いといわれるゆえんでもある。しかも連合軍の死傷者は約8万4千人。両軍あわせて実に26万人以上の人が傷ついたり亡くなったりした戦いであり、太平洋戦争中最も激しい戦いである。摩文仁の丘に建つ、平和の礎の刻銘碑に記された沖縄の戦で亡くなられた方々の名前は、敵味方あわせて約25万柱が刻まれている。

さて、米軍の沖縄上陸が明日にも行われようとしているその最中の3月24日、鉄血勤皇隊への招集は沖縄守備隊第32軍により沖縄連隊区司令部を通して、沖縄師範学校を始め中等学校と実業学校の11校、高等女学校9校に学徒動員令が下されている。鉄血勤皇隊、学徒通信隊、学徒看護隊の学徒隊の結成だ。それだけではなく、ほとんどの学校が全校生徒に招集がかかったこの日に前後して、4年生と5年生の繰り上げ卒業式を行っている。