エピローグ
質問① 摩文仁から脱出された夜と月の事
和歌
「死せる兵士と ともに泳ぎし摩文仁浜 行く道を照らす 月の光」
「摩文仁浜 浮かぶ死兵かき分けて 我が行く道を照らす 月の光」
池田「宮城さんの和歌を読ませていただきました。お月さんがでてきますよね、お月さんがたくさん。真一さんの和歌の中に、よく出てきます。とくに、あそこの、摩文仁の海岸を、泳がれた時の詩ですけど、満月だったんでしょうか」
宮城「だからね、それが心残り、月齢が今から追いかけられないかな。その当時の月齢を調べられないかな。ぼくはそうだったんだと思うんだがね、」
池田「分かりました。調べます。あれは」
宮城「満月だった。摩文仁では」
池田「6月23日以降のことですよね」
宮城「そう、組織的戦闘が終わった23日過ぎてからの事」
池田「そうですよね、それ以降の事ですよね、摩文仁の海岸を泳がれるのは」
宮城「あのね、歌にも書いたけど〝たまおとの・・・銃音の・・・つつおとと書いてね、静かなる摩文仁の浜、月がね煌々と照っていた。
池田「ですから、砲弾もやみ、組織的戦闘がやみ、そのなかですよね」
宮城「その時ね、歌にも書いてあるけど、死せる兵士かき分けてと、始めはね、みんな一緒に泳いでいると思っていた。兵隊がね、たくさん泳いでいた。近づいてきたら、物言わないのね、誰も物言わないのね。ぼく一人なんだよ。大きい十五夜だった」
池田「摩文仁の海岸から湊川の方へ向かわれていたんですか」
宮城「そう、そう」
後日、1945年6月の月齢を調べたら、6月26日が満月の夜であった。23日に沖縄第32軍の牛島中将と長勇参謀長が自決はしたが、その辞世の句には最後の一兵となるまで戦うよう命令をしている。その事は白旗を掲げ降伏をしている事を意味しているわけではない。後世の歴史家が沖縄戦の組織的戦闘の終結の日としているだけで、その日以降、戦闘が終わった事を意味している日ではない。捕虜になることを禁じられ日本兵は銃を構えて壕の奥深くに隠れ、鬼畜米英と思いこまされて逃げまどう沖縄の人々もまたそれぞれの壕の中にまだ潜んでいたのである。23日以後も戦闘は続いていた。しかし、その23日以降、絶壁を背にした摩文仁の壕の中で、32軍の司令官の遺体を発見した米軍は、それまでの激しい徹底した殲滅戦いから、徐々に敗残兵の掃討戦に移り、海上の艦船からの激しい砲撃も徐々に止んだようである。その間隙をぬって、南部に追い詰められた人々は北部へと逃げようとした。宮城真一氏もまた砲撃の止んだ26日の煌々と輝く満月の夜に、摩文仁の海岸から脱出しようとしたと思われる。
質問② 恥ずかしいというお気持ちについて
和歌
「弾の下 言うは恥ずかし若き頃 八十路の坂で やっと語らん」
「若き頃 弾の下くぐりし話恥ずかしく 八十路の坂で 人に語らん」
池田「特攻隊の生き残った人にインタビューをした時もそうなんですが、皆さん自分を責められているような気がするのですが、この恥ずかしというお気持ちは、どこからくるものなのですか」
宮城「これはね、戦争に負けた張本人だからね、俺たちは。戦争に負けてアメリカ文化が入って来た。もう、全然違うんだね。米兵は鬼畜だと思っていた。政府の宣伝を真に受けてね、軍国少年だったからね」
池田「あの時代だったら、みんなそうだったんじゃないですか、特に少年、青年たちは国を守るのに、故郷を守るのに懸命だったんですから、僕もそうなると思います。むしろそのことを誇りに思うのです」
宮城「あの時代はね。富国強兵、国民皆兵。兵隊になり国のために尽くすことが男子としての名誉だったんだ」
池田「特攻隊の生き残りの人からも直接聞いたことがあるのですが、少なからずその様なお気持ちになる方が大半でいらっしゃるようですね」
宮城「僕の和歌に次のような和歌がある 無傷で終わりしわが身 無事を祈りし 母の恩」
池田「読ませていただきました。どこの国の母親であれ、母親は子供の無事を祈りますよね」
宮城「僕の母親は祈った。亡くなった人の母親が祈ってなかったかというとそうじゃない。みんな祈ったはずだ、それが、僕の母親の祈りは通じて、亡くなった人の母親は、私の祈りは通じなかったのかと悔やむ、その母親の気持ちを思うと。どうして僕は生き残って、彼らは死んだのか・・・。母親の気持ちを思うと。また彼等の死は何だったのか」
〝国の為に 学業半ばで散し、君らの命 平和な国を永久に守らん〟という和歌も宮城氏は書いている。
「母の祈りは僕の母だけではなく、すべての母親にあったはずだ、それが、僕は助かり、彼は戦死したと語る宮城氏からはその生き死にの意味を問わなければ、今まで生かされて、この年になった人生を、このまま去るわけにはいかないとの強い思いが感じられた。