鉄血勤皇隊の名称について

池田「鉄血勤皇隊という名前ですがどなたがつけたのでしょうか」

宮城「さあ、それは分かんないね」

池田「これはたとえば、当時も皆さん鉄血勤皇隊と呼ばれていたのですか」

宮城「・・・・・・・」

池田「それとも戦後に。当時の大本営の作戦名で「菊水1号」というのがありますが、そうすると私は神戸に住んでいますので、しかも島田知事は神戸の須磨区の出身ですし、例の楠正成の逸話の中に「勤皇隊」というのがあるのですが・・・・。 僕がものすごく疑問に思うのは」

宮城「その付近じゃあないかと僕は思いますね。今、仰った「菊水」、俺達は「菊水隊」と呼ばれていたんだ」

池田「菊水隊なんですか」

宮城「あの、あれをもらいましたよ」

池田「あ、そうですか」

宮城「それをほとんどの人が忘れているね。あの、そう、あれが流れたような、幟というのか、ありますよね」

池田「ええ、菊と川の流れの様なマークですよね」

宮城「手書じゃないな、印刷みたいな。それをね、胸に付けて」

池田「そうなんですか」

宮城「勤皇隊はね・・・・。最初結成する時から・・・。勤皇隊と言われていましたね」

池田「あ、そうなんですか」

宮城「誰がつけたんだか・・・。うちの校長がね、藤野憲江というんですが、一中の、国粋派なんだよね」

池田「まあ、当時の事ですし」

宮城「その人あたりが俺はつけたんじゃないかと思うんだね」

池田「うーん。私がものすごく気になるのは「鉄血」という、たとえば「勤皇隊」はわかるのですが、なんとなく・・・「鉄血」とつけると勇ましい感じがして、これは誰かが途中で、なにか沖縄戦の話を書くときに「鉄血」と付けたんじゃないかなと。それとも最初から「鉄血」とついていたんでしょうか」

宮城「最初から」

池田「最初からですか。分かりました。ありがとうございます。ものすごく勇ましい名前なんで」

宮城「・・・・。鉄血勤皇隊。その表現しかないなあ・・・・」

池田「そうですよね・・・・。そうだと思います」

さて、話は前後するが前年の1944年10月10日の空襲について聞いてみた。

池田「1944年の10月10日に初めて沖縄が空襲を受けるのですが、その日の事を覚えていらっしゃいますか」

宮城「覚えているよ。なぜならね、前の日に先輩がね『おい、宮城、明日は那覇に映画に行くぞ』とね、言って、昼から映画に行く約束をしていたんだ。翌日のその日ね、朝早くに目が覚めて、那覇の方を見たら、煙が上がっているのね。飛行機も飛んでいた」

池田「激しい空襲だったと聞いているのですが・・・。音はしなかったのですか」

宮城「うん、音はね後から。行く予定だった映画館の場所を見たら、もうもうと煙が上がっていた」

この日沖縄本島を攻撃した米軍機は延べ1396機というかつてないほどの激しい空襲であった、米軍の空母から発進した艦載機は、沖縄各地の飛行場を攻撃し、那覇の近くにある小緑海軍飛行場(現在の那覇国際空港)もその標的となり、那覇の街の民家すれすれに飛行場への攻撃が行われた。もちろん、近辺の民家も爆撃や、機銃掃射を受けている。それが宮城氏によると、何か無声映画を見ているように感じられた。那覇の街のほとんどが壊滅したが、幸いにも宮城氏の住んでおられた首里の町は爆撃をされていない。

当時十八歳の宮城氏は65年も前の空襲の爆撃の音は忘れてしまったのだろう。しかし爆撃の光景は齢八十四歳になった今でもはっきりと覚えておられた。大きな爆撃の音を予測して質問した僕は期待が裏切られ、少し不満そうな顔をしたのだろう、その怪訝そうな顔を察して、

宮城「終わったらね、どこからともなく人がね、たくさんの人がぞろぞろと現れてきたんだね。みんな無言で歩いている。僕はね、どこからこんなたくさんの人が出てきたんだろう不思議に思ったもんだ。今から思うとね、北部の方へ逃げる人たちだったんだね」

この日の空襲は朝6時ごろから沖縄全域で行われ、終日続いたという。おもに軍事施設である飛行場が攻撃目標であったようだ。

当時の沖縄には北飛行場(読谷村・沖縄戦後、米軍海兵隊の航空基地となる)中飛行場(現在も米軍の嘉手納基地)、小緑飛行場(沖縄戦後は米軍の航空基地、現在は民間の航空会社と自衛隊の那覇空港)とおもに三つの飛行場があった。その日以降、沖縄北部へ疎開する人たちが急に増えた。那覇県庁と沖縄守備隊はその日の空襲以来、沖縄県民の10万人県外疎開を奨励するのだが、始めはなかなか疎開に応ずる人達は計画通りには増えなかったようだ。それが、南方戦線、南洋諸島の陥落が、報道規制にも関わらずに、どこからとも噂になり、ついには台湾へ約2万人の疎開、本土へ、主に九州へ約6万人と8万人ほどの人々が疎開した。沖縄本島に残った人たちには、沖縄北部へ疎開するよう督促をしている。